施設案内

開館時間
午前9時~午後5時まで
入館無料、駐車場無料

休館日
月曜日
(月曜が祝日の場合はその翌日)
年末年始(12/29~1/3)

※台風や大雨等の影響により、当館を市の避難所として開設する場合があります。この場合、臨時休館といたしますので、ご了承ください。
駐車場
乗用車270台
大型バス15台
(案内はこちら)

※障がい者・高齢者用の駐車場については、事前にご相談ください。

所在地
〒867-0055
熊本県水俣市明神町53番地

TEL
0966-62-2621
FAX
0966-62-2271
E-Mail
mimuseum@eos.ocn.ne.jp

※資料館HPに掲載されている写真等について、無断で刊行物、WEB上に掲載することを固くご遠慮申し上げます。


水俣病犠牲者慰霊式

令和5年度水俣病犠牲者への「祈りの言葉」


祈りの言葉(患者・遺族代表)松﨑 政司さん



水俣市長式辞

 本年は、水俣病の公式確認から67年目の年にあたります。
 ここに改めて、水俣病で亡くなられたすべての御霊が安らかならんことをお祈りし、謹んで哀悼のまことを捧げます。
 本日、水俣病犠牲者慰霊式を挙行するにあたり、御遺族をはじめ、水俣病患者の皆様、被害者団体の皆様、西村環境大臣、蒲島熊本県知事、国会議員並びに県議会議員の皆様、近隣自治体の皆様、また多くの市民の方々の御臨席を賜り、祈りを捧げていただきますことに、心から厚く御礼を申し上げます。
 水俣病犠牲者慰霊式については、令和2年度以降、中止や規模縮小での開催を余儀なくされて参りましたが、新型コロナウイルス感染症の感染症法上の位置付けの変更が予定されるなど、ウィズコロナへの移行が着実に進む中、4年ぶりに通常規模で開催することができました。
 一方で、コロナ禍は、世代間のリスクの違いなどによる社会の分断や、理解不足や誤った情報から地域や感染者への差別的な言動が問題となるなど、私たちの社会が抱える課題を浮き彫りにしました。それはこれまで取り組んできた水俣病に関する正しい情報の発信や、もやい直しの取組みの大切さを改めて痛感させるものでした。
 今回の水俣病犠牲者慰霊式では、長年の懸案であった名簿奉納のあり方が変更されております。今までの名簿奉納は、「公害健康被害の補償等に関する法律」に基づく認定患者であって、御遺族が奉納を希望される故人を対象としておりました。今回、全ての犠牲者を追悼し、祈りを捧げることができるよう、記名のないプレートを奉納する形式に変更されました。
 今回の変更で、水俣病犠牲者慰霊式の開催趣旨に、より則した形となるとともに、地域におけるもやい直しの推進に寄与するものと考えております。
 本市は、水俣病を経験したまちとして、市民の皆様をはじめ、議会、行政が一体となって、国や県の御支援をいただきながら、環境に配慮した様々な取組みを実施し、「環境モデル都市」や「SDGs未来都市」に選定されるなど、高く評価されるようになりました。
 今後も、経済・社会・環境の三側面からの取組みを推し進め、地域の活性化を図り、本市が掲げる「みんなが幸せを感じ 笑顔あふれる元気なまち 水俣」の実現に向け、しっかりと歩みを進めて参ります。
 最後に、改めて、水俣病で犠牲になられたすべての生命に心から祈りを捧げ、式辞といたします。


  令和5年5月1日

水俣市長 髙岡 利治


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患者・遺族代表 「祈りの言葉」

 本日、ここに、令和五年度 水俣病犠牲者慰霊式にあたり、祈りの言葉を申し上げます。
 患者連盟の初代川本輝夫委員長の後継として活動して参りました 父、松﨑忠男が昨年八月に亡くなり、後を追うように半年後の今年二月、母が亡くなりました。
 両親共に認定患者であり、今回の「祈りの言葉」を申し述べる機会を与えて頂きましたのも、水俣市 髙岡市長をはじめ、実行委員会の皆様の御配慮によるものと、心から感謝申し上げます。
 私たちが小さい頃は、近所の誰もがそうであったように、小学三年生頃から、両親と共に船に乗り、漁の手伝いをしておりました。厳しい父の躾に、手伝いが嫌になったこともあります。それでも「大きくなったら、父の跡を継いで漁師になるんだ」と、子供心に思っていたものでした。
 何年か後に、父がポツリと「このままでは、漁師じゃ飯は食えんバイ」と言ったのを覚えています。当時はまだ、父の言葉の意味が理解できないでいましたが、漁師になる夢を捨て、職人を目指すと心に決めたのも、父のあの一言だったように思います。
 私は昭和五十三年に芦北町消防団に入団し、昨年三月に退団致しました。入団した頃、すでに両親は認定されており、団活動を続けていく中で、団員同士、水俣病の話題が出てきても、すぐ互いに口をつぐんで話が途切れる、といったふうに、当時はまだ差別意識が残っていたように思いますが、現在は当時と違って、そういう事も少なくなってきたと思っています。それも、故 川本初代委員長をはじめ、多くの関係者の方々の御努力の賜物と感謝申し上げる次第です。
 平成十六年、父が「祈りの言葉」の中で「この地に立ち 昔を偲び 見渡せば どこへ消えたか 水俣の海」と申し上げました。
 また、「水俣病で、もっとも可哀想なのは、胎児性患者だ」と。
 「水銀に汚染され亡くなった、多くの子供たちもいます。人間の能力の多くを奪われて生まれてきた子供たちは、今でも想像を絶する苦労を続けています。彼らの人生を奪ったのは、いったい誰なのでしょうか・・・。」とも話しておりました。
 令和二年から急激に感染拡大した新型コロナも、行政をはじめ、多くの関係者の皆様の御努力により、収束の兆しが見えつつありますが、水俣病問題の収束は、まだ遠いように感じられます。
 私も父同様、女島生まれの、女島育ちです。水俣病被害者手帳を持ち、健康には人一倍気を使っています。
 水俣病問題に取り組んできた両親が残した足跡を大事にし、今後もこの地で生活していきます。私達も、一人ひとりがもっと真剣に考え、知恵を出し合い、これまでのような悲劇が二度と起こらないよう努めて参ります。
 最後になりましたが、本日、慰霊式を開催して頂きました、水俣市をはじめ、実行委員会の皆様、多くの関係者の皆様に感謝申し上げますと共に、犠牲者の皆様の御冥福を心から願いまして「祈りの言葉」と致します。


  令和五年五月一日

患者・遺族代表 松﨑 政司


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水俣児童・生徒代表 「祈りの言葉」

 水俣病で命を落とされた方々、そして今も苦しんでいる方々に、私たちができることは何なのでしょう。水俣病の公式確認から67年目を迎えた現在でも、新聞やニュースなどでは「水俣病」という言葉が見られ、水俣病は過去の出来事ではないことを感じます。そのために、水俣に住む私たちにできることは正しい知識を身につけ、水俣病のことや水俣の良さを未来に伝えていくことだと考えます。

 私たちは、水俣に学ぶ肥後っ子教室や総合的な学習の時間などを通して、今まで水俣病について学んできました。そこでは、語り部の方から水俣病の歴史についての話を聞いたり、水俣病の患者さんはどんなことに困り、苦しんできたのかを学んだりしました。また、患者さんとの交流から、苦しみを乗り越え、明るく前向きに生きておられる姿に、「私たちも頑張ろう」と勇気をもらいました。その中でも私が心に残っていることは、今でも差別や偏見が根強く残り続けているということです。このような、差別、偏見のある社会はいけないと思います。私はどんな人も公平で差別されることなく幸せに生きていくことができる世の中にしていきたいと思いました。

 私たちの学校では、2001・水俣ハイヤ節という、杉本栄子さんを中心に作られた踊りを毎年踊り続けています。困難なことでも笑顔と楽しさで包み込み、前向きに生きていこうという栄子さんの思いを大切にし、私たちは全力で踊っています。この踊りを通して、学校全体で「水俣病」について学習を進めてきました。そして、「水俣病」がもたらした多くの被害や、環境を守ることの大切さを次世代に伝えるとともに、全ての人が大切にされ、安心して生きていくことができる社会をつくっていかなければならないと考えています。今後も私たちがこの踊りを受け継ぎ、差別や偏見のない水俣・日本・世界をつくっていきます。

 最後になりますが、私は水俣病を教訓として、環境モデル都市に生まれ変わり、また、SDGs未来都市として、持続可能な地域社会づくりに取り組んでいる水俣に生まれたことを誇りに思っています。だから、誰になんと言われても、私は堂々と水俣市出身と言うことができるようになりたいと思います。そして、差別に負けず、生まれ育った美しい水俣の良さを多くの人に届け、全ての人が幸せに暮らしていくことができる社会をつくっていきたいと思います。
 起きてしまったことは、なかったことにはできません。
 だからこそ、私たちは仲間と共に何をすればよいのかを考え、行動を起こしていこうと思います。

  私たちは水俣の環境保全に取り組み、二度と同じ過ちを起こさず、水俣病の教訓を生かし、素晴らしい未来をつくっていくことを誓い、祈りの言葉といたします。


  令和5年5月1日

水俣市立袋小学校 塚田 暁斗


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環境大臣 「祈りの言葉」

 水俣病によって、かけがえのない命を失われた方々に対し、心から哀悼の意を表します。

 また、大変な苦しみの中でお亡くなりになった方々や、その御遺族、そして健康被害や地域に生じた軋轢などに苦しまれてきた皆様に対し、誠に申し訳ない気持ちです。
 政府を代表して、水俣病の拡大を防げなかったことを、改めて衷心よりお詫び申し上げます。

 水俣病犠牲者慰霊式は、令和2年度以降、新型コロナウイルス感染症の影響を受けて中止や規模を縮小しての開催が続いておりましたので、ここ水俣で環境大臣が慰霊式に参列させていただくのは4年ぶりとなります。
 実行委員会の皆様をはじめ、開催に向けて準備を進めてこられた地元の関係者の皆様の御努力に感謝申し上げます。

 こうして環境行政の原点と言われる水俣病発生の地に立たせていただくと、ここで環境が破壊され、甚大な被害が生じ、地域社会に不幸な亀裂がもたらされたことに思いを致すとともに、多くの方々のご努力によってこの美しく豊かな海が取り戻されたことを実感し、環境行政の役割の重さを改めて感じております。

 振り返れば、1956年に水俣病が公式確認されてから67年が経ち、また環境省の前身である環境庁が設置されてから半世紀が経過しました。この間、環境省では、多くの方々の御協力を得ながら水俣病に関する補償や救済に努めるとともに、胎児性・小児性患者をはじめとする方々の日々の生活の支援や、地域社会の絆を取り戻すいわゆる「もやい直し」に取り組んでまいりました。

 3年後の2026年には、水俣病公式確認から70年を迎えます。私たち一人一人が水俣病問題と向き合い、またその歴史と教訓を引き継いでいくため、地域の皆さまの声に耳を傾け、関係自治体や地元企業、地域づくりに尽力されている多くの皆さまとも協力しながら、この節目の年に向けた歩みを進めてまいりたいと考えています。
 
 また、水俣病の被害を受けた方々やその御家族の方々なども少しずつ年を重ねられ、新型コロナウイルス感染症の影響なども受けて、皆さまの生活をとりまく状況は日々変化していると承知しています。引き続き、地域のために何が必要かを考え、皆が明るく安心して暮らしていける社会づくりを目指して取組を進めていきたいと考えています。

 さらに、2013年に、国際社会が一丸となって水銀対策に取り組むためにこの水俣市で「水銀に関する水俣条約」が採択されてから、今年で10年になります。この10年間で140に及ぶ国と地域が条約を締結し、各国で水銀対策が進められてきました。水俣病を経験してきた我が国は、世界でこのような悲惨な公害が二度と繰り返されぬよう、国際機関とも連携しつつ、数多くの二国間・多国間協力事業を行い、積極的に世界の水銀対策に取り組んでいます。
 引き続き、水俣病の経験と教訓を世界に発信し、国際社会の中で先頭に立って、水銀による環境汚染や健康被害のない世界の実現に向けて取り組んでまいります。
 加えて、先月のG7気候・エネルギー・環境大臣会合においても、地球規模での汚染危機に対処していくことに合意いたしました。水銀による環境汚染はもとより、あらゆる環境汚染のリスクや悪影響を減らしていくため、一層の取り組みを進めてまいります。

 水俣には、水俣の地を愛し、地域の発展と安心を目指して、様々な形で日々努力されている方が多くいらっしゃいます。また、水俣には、美しくかけがえのない自然と文化が残っています。
 そうした人々の想いや豊かな環境を将来世代にしっかりと引き継いでいくためにも、水俣に関わる多くの方々とともに、持続可能で豊かな社会の実現を目指して、全力で取組を進めていくことを誓います。

 最後に、改めて、水俣病の犠牲となりお亡くなりになられた方々の御冥福をお祈りし、私の「祈りの言葉」とさせていただきます。


  令和5年5月1日

環境大臣 西村 明宏



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県知事 「祈りの言葉」

 水俣病犠牲者慰霊式に当たり、水俣病の犠牲となられた方々の御霊に対し、全ての熊本県民とともに、謹んで哀悼の意を表します。
 
 4年ぶりに、ここ水俣の地で、慰霊碑の前に立ち、祈りの言葉を捧げることができ、改めて身が引き締まる思いです。
 
 かつて「魚湧く海」と呼ばれた水俣湾。その豊かな海が汚染され、多くのかけがえのない尊い命と健康が失われました。被害者の苦しみや大切な方を失った御家族の悲しみは今も続いています。
 熊本県の知事として、水俣病の被害拡大を止められなかった責任を深く自覚し、衷心よりお詫び申し上げます。
 
 私の政治の原点は水俣病にあります。
 私は、県民の生命と健康を守るため、あらゆる手段を尽くして迅速に対応すべきという水俣病の教訓を胸に、これまで県政の課題に対応してきました。
 熊本地震や令和2年7月豪雨などの自然災害や新型コロナウイルス感染症に対応するときも、水俣病に学んだ初動対応の重要性を心に刻み、先手先手で対策を講じてきました。
 水俣病に学び、水俣病から得た教訓を活かし続けていくことは、本県の責務であります。
 私は、これからも水俣病に学んだ教訓を基本理念に置き、県政の重要課題に対応して参ります。

 公健法に基づく水俣病の認定審査については、申請される方がおられる限り、平成25年の最高裁判決を最大限尊重し、着実に審査を進めて参ります。
 また、寝たきり等により移動が困難な方に対する往診や送迎支援など、申請者お一人お一人の御事情に配慮しながら丁寧に対応して参ります。

 胎児性・小児性患者の方々については、御本人はもとよりその御家族も、長い時間を水俣病とともに生きてこられました。共に御高齢となられた方々が安心してお過ごしいただけるよう、これまで在宅福祉の充実やケアホームの整備などに取り組んで参りました。
 また、災害時に自力での避難が困難な患者の方々を、地域で見守り、支えていく取組みも、確実に広がっています。
 更に、重い障がいにより、外出もままならない患者の方々から、「旅行がしたい」という夢を直接お聞きし、その夢を実現したいと願う御家族や支援者の方々の思いを後押しする事業も実施しています。
 今後も、御本人や御家族の御希望を丁寧に汲み取り、国や市・町、地元関係者の皆様とともに、不安の解消や生き甲斐づくりに取り組んで参ります。

 また、水俣病の歴史や教訓を、国内外や、次の世代に伝えていくことは、本県の使命であると考えています。
 私たちは、正しい情報に基づき冷静に判断し、行動することの大切さや、一度破壊されてしまった環境を復元することの難しさなど、多くのことを水俣病に学んでいます。
 水俣病の悲劇を二度と繰り返さないため、語り部の方々をはじめとする関係者の皆様と一体となって、着実に継承して参ります。

 併せて、地域の再生と振興についても、第七次水俣・芦北地域振興計画に基づき、国や市・町、地元関係者の皆様とともに、しっかりと取組みを進めて参ります。

 私にとって5月1日は、水俣病問題解決への決意を新たにする特別な日です。
 今日、この慰霊碑の前で、改めて、熊本県は水俣病問題に真摯に向き合い、全力を尽していくことをお誓い申し上げます。
 結びに当たり、改めて水俣病犠牲者の方々の御冥福を心からお祈り申し上げ、私の「祈りの言葉」と致します。


  令和5年5月1日

熊本県知事 蒲島 郁夫



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チッソ株式会社代表 「祈りの言葉」
 
 本日、ここに、水俣病犠牲者慰霊式が執り行われるにあたり、謹んでお亡くなりになられました方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様方に対しまして心より哀悼の意を表します。
 当社は、ここ水俣の地で創業し、水俣市、及び周辺市町村の皆様に支えられ、地域とともに歩みながら事業活動を続け、今年で115年を迎えることができました。
 この間、当社の工場廃水に起因する水俣病を惹き起こし、多くの方々が犠牲になられましたこと、そして地域の皆様に多大なご迷惑をおかけしましたことは、痛恨の極みであり、ここに衷心よりお詫び申し上げます。
 当社は、患者の皆様に対する補償責任の完遂を経営の至上命題に掲げ、必死の努力を重ねてまいりましたが、この補償責任を果たしていく決意は、今後も決して変わることなく継続してまいる所存です。
 3年以上にわたって、世界中で蔓延した新型コロナウイルス感染症は、国内外でのウィズコロナ政策への転換により、感染症拡大前の生活様式に戻りつつありますが、まだまだ予断を許さない状況にあります。また、長期化するウクライナ情勢や欧米における金融システム不安などにより世界経済は一層混迷を深めており、事業会社であるJNCの経営環境も依然として厳しく先行きが不透明な状況が続いております。
 このような厳しい環境下ではありますが、主力工場である水俣製造所を始めとする当社グループにおきましては、水俣病の反省に立ち、常に環境、安全に配慮したものづくりに努め、豊かで健康的な生活と持続可能な社会の創出に向けた事業活動を精力的に進めております。
 中でも、再生可能エネルギーである水力発電の有効活用によるカーボンニュートラルの推進や、ライフケミカル製品を始めとした人の健康を担う製品の開発や安定供給に努めることにより、社会的課題の解決に向け積極的に取り組んでおります。
 これらの取り組みを通じ、早期の収益回復を実現させ、安定かつ持続的な経営基盤の確立に努め、患者の皆様に対する補償責任の完遂と地域社会の発展に貢献してまいります。
 そして患者の皆様が安心して暮らしていただけるよう、関係自治体が検討される必要な施策に対しましても協力してまいる所存です。
 これらのことが犠牲となられた方々の鎮魂のため、また、国、県、関係各位並びに地域の皆様からのご支援にお応えするための当社の責務であり、これからもより一層の経営努力を重ねてまいりますことをここにお誓いし、祈りの言葉といたします。


  令和5年5月1日

チッソ株式会社 代表取締役社長 木庭 竜一



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