祈りの言葉(患者・遺族代表)上野エイ子さん
式辞に先立ちまして、この度、台風19号の被害により亡くなられた方々に、お悔やみ申し上げますとともに、被害を受けられた全ての方に、心からお見舞いを申し上げます。
被災地の一日も早い復興を、お祈りいたします。
今は、この青く澄み渡った海の前で、水俣病により亡くなられたすべての御霊が、安らかならんことをお祈りし、慎んで哀悼のまことを捧げます。
本日、水俣病犠牲者慰霊式を挙行するにあたり、御遺族をはじめ、水俣病患者の皆様、被害者団体の皆様、小泉環境大臣、蒲島熊本県知事、国会議員並びに県議会議員の皆様、近隣自治体の皆様、また多くの市民の御臨席を賜り、祈りを捧げていただきますことに、心から厚く御礼を申し上げます。
本年5月1日に平成から令和へと元号が変わりましたが、この地に過去に例のない水俣病が発生したという事実、また、水俣病により被害にあわれた方々と御遺族の苦しみ、悲しみは、昭和から平成、そして令和という長いときを経ても変わることはありません。
しかし、この間に水俣市は、水俣病の教訓を胸に、市民の皆様をはじめ、議会、行政が一体となって、国や県、そして全国の皆様のご支援をいただきながら、環境に配慮した様々な取り組みを実施し、その結果、国の環境モデル都市に認定されるなど、環境のまちとして高く評価されるようになりました。
これから、この令和の時代にどのような取り組みが必要か。
水俣病で犠牲になられた全ての生命に祈りを捧げ、多様な市民が協力して事業に取り組むことにより「もやい直し」を推進し、同じような産業公害が地球上で二度と起こることがないようその教訓の発信に努めること。
水俣病に関する情報を歪めることなく正しく伝えること。
そして、水俣病を経験したまちだからこそできる、環境を大切にしつつ、市民や企業、地域社会の繋がりを核とした、子どもたちが誇れる、経済基盤の強い活力ある社会を構築することであると考えます。
そのために、環境モデル都市の理念を継承し、発展させた「SDGs未来都市」の選定を目指し、経済・社会・環境の三側面における新しい価値の創出を図ります。
幸い、水俣市には財産、宝とも言える、多様で温かい人、長く地域を支えてきた地元商工業、豊かな食・温泉・自然などの社会資源が豊富に存在します。
私は、水俣市長として、これらの地域の宝を活かし、それぞれを調和させることで、子どもから高齢者まで全ての世代が、水俣に暮らす喜びや幸せを感じられるまちを目指します。
最後に、改めて、水俣病で犠牲となられたすべての生命に心から祈りを捧げ、式辞といたします。
令和元年10月19日
水俣市長 髙岡 利治
死んでしまった良子 お前は今でも寝たままなの
目は見えるの 手足は動くの
母は もう一度 逢いたい 見たい
死んでしまった良子 この世でお前は何も見えなかった
歩いているの それとも走っているの
死んでしまった良子 お前は母ちゃんと呼べなかった
つらかったろう 淋しかったろう
母は心からおわびしたい
昭和36年3月、私の生きる希望であった娘 良子は亡くなりました。
たった2年半の短い生涯でした。
死んで初めてわかった病名が胎児性水俣病でした。
当時は、病気の原因が分からず奇病といわれ、病人を受け入れてくれる医者や施設もない、何もできないまま、死を待つばかりでした。
私は、親も兄弟も、そして、夫も我が子も、みんなみんな水俣病で亡くしました。
昭和33年8月の終わりごろの夕方でした。
いつものように、漁に行って網を引き上げている夫
この瞬間(とき)から、壮絶な水俣病との闘いが始まりました。臨月を迎えていた私と主人は、子どもの誕生を待ちわび、「頑張って働いて家を建てような」と、あれやこれや将来のことを話していました。
でも、夫は、発病からたった13日でもがき苦しみながら死んでいきました。
夫を亡くした私は、悲しみに暮れる間もなく6日後には、娘 良子が生まれました。
「オギャー」と元気に生まれた娘を見て、私はうれし泣きに泣きました。「元気に育ってくれるよう、父の分まで長生きしてね」と願う私でした。
まさかその子が、水俣病におかされて生まれてくると、誰が考えたことでしょう。あちこちの病院を受診しました。でも何も分からず、同じような検査の繰り返しで、私は途方にくれました。
良子は、何も聞こえず、何も話せないままでした。
昭和36年3月の夜、良子はガタガタと歯を食いしばり、目を白黒させて、激しい痙攣におそわれました。
「死んではだめ。死んじゃくれるな。」と聞こえぬ我が子に叫びながら病院に急ぎましたが、翌朝、良子は死んでしまいました。
夫と娘を失った私は、打ちひしがれる思いでした。
その時です。「原因が分からないので、解剖させてください。ほかの子どもたちのために協力してください。」と病院から頼まれました。
私は、「解剖なんてしてほしくない。」と思っていましたが、病院が何度もお願いするので、仕方なく、解剖を承知しました。
解剖され、軽くなった良子をおんぶして帰ったあの日の悲しみを、言葉に表すことはできません。
良子が胎児性水俣病だったと分かったのは解剖から4か月後のことでした。
「一度でいいから、母ちゃんと呼んでほしかった。」
私は、水俣にいるのがつらく、水俣から逃げ出したこともありました。それでも、死んだ良子のことが気がかりで水俣に帰ってきました。
水俣に帰った後、水俣病患者の福祉施設「明水園」ができるという話を聞きました。
「良子が生きていたら入所したかもしれない明水園で働きたい」と思いました。
そして、水俣病の苦しみを抱えながら、良子と同じように苦しんでいる水俣病の方々をお世話しながら、明水園で定年まで働きました。
私は、水俣病で亡くなられた尊い命や、私の代わりに逝ってしまった良子への思いを抱いて、一歩一歩自分の足で踏みしめて、水俣病で家族を失ったつらい悲しみに耐え、怒りや憎しみを乗り越えて生きてきました。
でも、私たちが受けた差別や苦しみを与えた言葉は決して忘れたわけではありません。
私だけではありません。水俣病患者やその家族は、身体が痛くとも、苦しくとも、絶望の淵をさまよっていたとしても、二度と、このような悲惨なことを繰り返してはならないと、精一杯訴え続け、前へ前へと歩んできたんです。
私は、もうすぐ92歳になります。
ここにいる皆さんに、私からのお願いです。
水俣病で亡くなった多くの人たちの生命(いのち)を決して無駄にしないでください。
私のようにつらく悲しい思いをしないで済むように、自然を大切にすると約束してください。
どうか皆さん、水俣病のことを忘れないでください。
最後に、忠市さん、良子、どうか安らかにお眠りください。私も間もなくそちらへまいります。
再び会えることを楽しみに、今は精一杯生きていきます。
令和元年10月19日
患者・遺族代表 上野 エイ子
僕たちはこの水俣で生まれ、育ちました。青い海、豊かな木々、バラやコスモス等のきれいな花々が咲く自然豊かな水俣、この故郷が大好きです。地域の人々と一緒に運動会でダンスをしたり、伝統芸能を学んだり、水俣の人の優しさを感じながら過ごしています。
僕は、6年間胎児性水俣病患者の方と交流を続けています。この交流で、患者さんが話された「いじめ、差別をなくしてほしい。友だちを大切にしてほしい。」、「間違えることはある。その時に止める勇気が大切だ。」という言葉が印象に残っています。
この水俣病を教訓とし、より良い未来を見つめながら、今の水俣があることも学んでいます。環境や人々の絆を大切にする水俣を目指して、もやい直しの活動や環境モデル都市として多くの取組が行われています。私も学校で「けんかをなくす。差別をなくす。一人でも悲しい思いをする人がいてはいけない。」という思いを持ち、「笑顔あふれる水東小学校」になるように友だちとの絆を大切にしています。
水俣市では環境をよりよくするための活動を多くされていますが、学校では環境ISO活動に取り組んでいます。そして、地域でのごみの分別活動にも参加し、水俣の環境をよりよくするために活動しています。水俣の海は、今とてもきれいな海です。きれいに生まれ変わった水俣の海を守り続けていきたいと思います。また、そのことを伝えていきます。
水俣病公式確認から63年がたち、元号も昭和、平成、令和と変わりましたが、私たちは水俣病の犠牲になられた方々の尊い命、今なお病気と闘っておられる患者さんの思いを決して忘れてはなりません。これから、同じ過ちを二度と繰り返さず、水俣病から学んだ多くのことを生かし、また正しい知識を伝え、よりよい未来を築くことを誓い、祈りの言葉といたします。
令和元年10月19日
水俣市立水東小学校 6年 下鶴 将大
佐々木 実子
水俣病犠牲者慰霊式に臨み、水俣病によって、かけがえのない命を失われた方々に対し、心から哀悼の意を表します。
また、長きにわたる大変な苦しみの中でお亡くなりになられた方々、その御遺族、地域に生じた軋轢などにより、今なお苦しみの中にある方々に対し、誠に申し訳ないという気持ちで一杯です。
ここに、政府を代表して、水俣病の拡大を防げなかったことを、改めて衷心よりお詫び申し上げます。
昭和31年に公式確認された水俣病も、本年で63年という月日が経過しました。今回、水俣病犠牲者慰霊式の出席にあたりこの水俣の地を訪れましたが、豊かで美しい不知火海を望むこの地に立つと、環境が破壊され、甚大な健康被害が生じ、平穏な地域社会に長年にわたり不幸な亀裂がもたらされたことに思いを致さずにはいられません。
長い年月の経過により、水俣病の被害を受けた方々や、その御家族の方々が御高齢になられ、日々の暮らしに様々な困難が伴っていると承知しています。新元号の「令和」という言葉には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、との意味が込められています。水俣病問題では、これまで多くの方々が心を寄せ合い、胎児性・小児性患者をはじめとする方々への生活支援や、絆の修復、いわゆる「もやい直し」などの様々な課題に懸命に取り組んでこられました。令和の時代においても、こうした一つ一つの取組を着実に積み重ねていくことが、水俣病問題の解決につながっていくものであると確信しています。
また、世界のいかなる国においても、水俣病のような悲惨な公害を繰り返してはなりません。平成29年には、「水俣」の地名を冠した「水銀に関する水俣条約」が発効いたしました。国際社会の中で、我が国が先頭に立ち、水銀による環境汚染や健康被害のない世界の実現に向けた取組を進めてまいります。
国として、地方公共団体、事業者、国民の皆様とともに、公害のない、持続可能な社会の実現に向けて、恵み豊かな自然環境を保全し、将来に継承していくことを、ここ水俣の地においてお誓い申し上げます。
本日、水俣病のような悲惨な公害を二度と繰り返してはならない、こうした決意を新たにしました。
そして、環境省は水俣病をきっかけに生まれた組織であるということを決して忘れません。
最後に、改めて、水俣病の犠牲となりお亡くなりになられた方々の御冥福をお祈りし、私の「祈りの言葉」とさせていただきます。
令和元年十月十九日 環境大臣 小泉 進次郎
水俣病犠牲者慰霊式にあたり、水俣病で尊い命を失われた方々の御霊に対し、全ての熊本県民とともに、謹んで哀悼の意を表します。
県民の生命や健康を守るべき責任がある本県が、水俣病の被害拡大を防ぐことができず、長きに亘り被害者や御家族の皆様に、苦難の日々を強いてしまいました。
この慰霊碑の前に立ち、犠牲になられた方々の無念さを思う時、水俣病の発生当初、何ものにも代え難い人間の命に、もう少し深く思いを巡らせ、対応していればと悔やんでも悔やみきれません。
熊本県知事として、改めて、県の責任の大きさを重く受け止め、尊い命を失われた方はもとより、今もなお苦しんでおられる被害者や御家族の皆様に対し、衷心よりお詫び申し上げます。
私は、政治とは、いかに弱い立場にある方々の目線に立ち問題解決を図っていくかにあると信じています。知事就任以来、その信念のもと、多くの水俣病被害者の方々と向き合い、それぞれの切実な思いに何とか応えるため、特措法による救済をはじめとして、精一杯行動して参りました。
私の政治の原点は、水俣病にあります。これからも水俣病被害者の方々に寄り添いながら、水俣病問題の解決のために全力を尽くして参ります。
まず、公健法に基づく水俣病の認定審査については、県として、救済を求める方がおられる限り、平成25年4月の最高裁判決を最大限尊重し、迅速かつ丁寧に取り組んで参ります。その上で、私の任期中の目標である1200件の審査について、完了を図りたいと考えております。
次に、胎児性・小児性患者の方々についてです。私は、これまで、水俣・芦北地域を訪問し、胎児性・小児性患者の方々と御家族から直接、日々の生活のお困り事や御心配事などをお聞きして参りました。その中で伺った御意見を真摯に受け止め、在宅福祉の充実やケアホームの整備、明水園の機能強化などに取り組んで参りました。また、昨年11月も患者の方々の御自宅などを訪問させていただきました。そこで、親亡き後の我が子を心配される声や、介護する親の負担を心配する患者の方の声をお聞きし、改めて厳しい現実を目の当たりにしました。その際にお聞きした「旅行がしてみたい」という要望を受けて、県では、旅行の際の介助者の旅費等を助成する事業を今年度から再開しました。
今後も、胎児性・小児性患者の方々に安心して暮らしていただけるよう、患者御本人や御家族の将来の生活への御希望を丁寧に汲み取り、それを最大限尊重しながら、課題の解消に向け、引き続き、しっかりと取り組んで参ります。
また、「公害の原点」である水俣病の歴史や教訓を風化させないことは本県の使命であります。先月ポーランドで開催された水銀に関する国際会議でも、語り部の方の御協力をいただき、水俣病の経験や教訓を世界に向けて発信しました。そして、こうした取組みを今後も是非続けて欲しいというお声を頂いて参りました。水俣病の悲劇を二度と繰り返さないため、国や地元の市・町、語り部の方々をはじめとする関係者の皆様と一体となって、国内外、そして次世代にしっかりと発信、継承して参ります。
さらに、世界に向けて「水俣」の地名を冠する水俣条約の批准と実施を地方の立場から後押しし、機運を醸成することも本県の役割であります。「水銀フリー社会」の実現に向けて、ここ熊本の地から、率先して取り組みを進めて参ります。
併せて、地域の再生と振興についても、水俣・芦北地域振興計画に基づき、地元の市・町と連携しながら、力強い取組みを重ねて参ります。
私にとって、この慰霊式の日は、水俣病問題の解決と地域の再生に向けて、決意を新たにする特別な日でもあります。
これからも熊本県は水俣病問題に真摯に向き合い、全力を尽くすことをお誓い申し上げます。
結びにあたり、改めて水俣病犠牲者の方々の御冥福を心からお祈り申し上げ、私の「祈りの言葉」と致します。
令和元年十月十九日
熊本県知事 蒲島 郁夫
本日、ここに、水俣病犠牲者慰霊式が執り行われるにあたり、謹んでお亡くなりになられました方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様方に対しまして心より哀悼の意を表します。
当社は、この水俣の地で創業し、今年で百十一年を迎えました。これまで水俣市、及び周辺市町村の皆様に支えられ地域とともに歩んでまいりました。
しかしながらこの間に、当社の工場廃水に起因する水俣病を惹き起こし、多くの方々が犠牲になられましたこと、地域の皆様に多大なご迷惑をおかけしましたことは、痛恨の極みであり、衷心よりお詫び申し上げます。
当社は、これまで患者の皆様に対する補償責任の完遂を経営の至上命題に掲げ、必死の努力を重ねてまいりました。この補償責任の完遂は、今後も決して変わることなく継続して参る所存でございます。
事業会社であるJNCもスタートして8 年が経ち、収益基盤の安定・強化に努めておるところでございますが、米中貿易摩擦の激化、混乱する中東問題、日韓関係等、国際情勢は混迷を深めており、景気の先行きを見通すのが大変難しい状況となっております。
このような経済環境ではありますが、主力工場である水俣製造所を始めとする当社グループにおきましては、水俣病の反省に立ち、常に環境・安全に配慮しながら、「優れた技術で社会の進歩に貢献する先端化学企業」として、世の中に求められるものづくりを進めております。加えて、温室効果ガスを排出しないクリーンエネルギーである水力発電所のリニューアル化も積極的に推進しております。これらの取り組みを通じ、当社の収益基盤の安定・強化に努め、患者補償責任の完遂と地域社会の繁栄・発展に貢献してまいります。
また、患者の皆様が安心して暮らしていけますよう、関係自治体が実施される必要な施策に対しましても協力してまいる所存でございます。
これらのことが犠牲となられた方々の鎮魂のため、また、国、県、関係各位並びに地域の皆様からのご支援にお応えするための当社の責務であり、これからもより一層の経営努力を重ねてまいりますことをここにお誓いし、祈りの言葉といたします。
令和元年十月十九日
チッソ株式会社
代表取締役社長 木庭 竜一