祈りの言葉(患者・遺族代表)金子親雄さん
平成30年度 水俣病犠牲者慰霊式 市長式辞
不知火の海に、苦しみと悲しみが放たれ、60年以上が経ちました。
今は、この青く澄み渡った海の前で、水俣病により亡くなられたすべての御霊に対し、謹んで哀悼のまことを捧げます。
本日、水俣病犠牲者慰霊式を挙行するにあたり、御遺族をはじめ、水俣病患者・被害者団体の皆様、中川環境大臣、蒲島熊本県知事、国会議員並びに県議会議員の皆様、近隣自治体の皆様、そして多くの市民の御臨席を賜り、祈りを捧げていただきますことに、心から厚く御礼を申し上げます。
今年の2月、改めて、私は一人この地に立ちました。
日の沈む直前であったと記憶しています。
水俣市長として、市民の皆様にその任を託され、なすべきことを胸にしたとき、苦しみという言葉では表し得ない苦しみの中で、生涯を終えた方々対し、この地で想いを致さずにはいられませんでした。
先日、限られた時間でしたが、水俣病資料館語り部の会の方々との懇談の中で、これまでどのように水俣病に向き合い、いかに生きてこられたのか、改めてお話をお伺いしたところです。
「これからも水俣病の正しい知識を、しっかりと伝えていく。」と皆さんが口にされたその言葉から、水俣病被害者として、また、その家族として、内に秘めた多くの想いを抑えながら、「水俣病の被害を無駄にしない」という強い意志を、確かに受け取りました。
懇談の前日、語り部としてともに歩まれていたお一人が、闘病の末、永眠されました。小児性水俣病であったその方は、精力的に活動ををしていただいてきたと伺っています。
講話を聞いた子どもたちからの御礼の手紙に、彼女は必ず、一筆一筆お返事を書かれていたそうです。どのような想いで手紙をしたためられていたのか、本当の御心をお聞きするすべは、もうありません。
しかし、きっと、水俣病という状況の中にあってなお、人との繋がりを大切にされていたのだと考えます。希望のある子どもたちの未来の安寧を、心から願っておられたのだと考えます。
水俣は、市民の皆様や市政を担ってきた諸先輩方、国や県、国会議員の皆様をはじめ、多くの方々の長年の取り組みにより、環境のまちとして高く評価されるようになりました。
平成4年の「環境モデル都市づくり宣言」からスタートして以降、ごみの減量・分別、環境ISOなどを推進し、結果として平成20年には国の環境モデル都市に認定されるなど、着実に国内外の環境政策をリードする存在になっています。
本日、今一度この場に立ち、水俣市長として、なすべきことは何か、想いを巡らせています。
私は、間もなく60歳になり、胎児性患者の方々とは同世代であります。
我々に託されたのは、水俣病を経験したまちであるからこそ、環境は大切にしつつ、市民や企業、地域社会の繋がりを核とした、子どもたちが誇れる、経済基盤の強い活力ある社会の構築であると信じています。
水俣市長として、地域産業の強化を軸に、福祉の充実、きめ細やかな教育政策の展開を、本地域に住まうすべての方々とともに、協力に進めてまいります。
最後に、改めて、水俣病で犠牲となられた全ての生命に心から祈りを捧げ、式辞といたします。
平成30年5月1日
水俣市長 髙岡 利治
「祈りの言葉」
今年も5月1日になりました。
水俣病の犠牲となり、2年前に亡くなった母スミ子の魂も今日はここで見守ってくれていると思います。
母さん・・・今なにをしていますか。
弟の貢(みつき)には会えましたか。沢山抱っこしてあげていますか。
父さんと夫婦で「うまか~」て好きな魚やびなを食べてますか。
私たちが生まれ育った明神は水俣湾と不知火海に挟まれた岬で、日常に工場の音が響き渡っていましたね。
そんな中、私が2歳になった昭和28年には、私が原因不明の病にかかり、貢は生まれて間もなく亡くなったうえ、父さんも私が3歳の時に亡くなりましたね。
後になって父さんは劇症型水俣病、私は小児性水俣病、新たに生まれてきた弟、雄二は胎児性水俣病ということが分かりましたね。
「魚をとり、魚を食べる」ごく普通の生活で水俣病におかされていったのです。
母さんは、どんな時でも苦しみや悲しみに負けず、頑張り屋で、親切で、人の喜ぶ姿が大好きでしたね。
悔しく苦しい耐え難い思いだったと、親になった今では母さんの気持ちがよく分かるような気がします。
私は、中学時代まで病院で過ごし、縁あってチッソ開発で、母さんに心配をかけながらも定年まで41年働きました。
3人の宝子にも恵まれ、その子たちも立派に成長し、今では6人の元気いっぱいの孫たちがいるお祖父さんになりました。
父さん、母さんが尊い命を繋いでくれたのです。
母さんは、雄二たち胎児性水俣病の人たちの将来を最後の最後まで心配していましたね。
雄二は、最近は好きな寿司ものどを通らず、年々衰える不自由な身体でも、食べたい、自分の足で歩きたいという望みを捨てず、たくさんの方に助けてもらいながら、歯を食いしばり生きています。
母さん、人前で話した事がない私が、今日ここで話すとは夢にも思わなかったでしょう。
いま私たちに何ができるのか?年月が流れても決して忘れてはなりません。
母さんが語り部になったのは、「妻として、母として、同じ苦しみを世界中の女性に味わってもらいたくない」との思いからでしたね。
もう二度と同じような悲劇で、多くの人が苦しまないよう、どうかどうか見守ってください。
「一番苦しんだ人が、一番幸せになれる」
その強い心をもって、私たちは、水俣病という宿命を使命に変え、困難に負けずに生きる姿で、人に勇気を与える人生を、これからも歩んでいきます。
最後に、水俣病で犠牲になられた多くの方々のご冥福をお祈りいたします。
どうか安らかにお眠りください。
平成30年5月1日
患者・遺族代表 金子 親雄
「祈りの言葉」
私は、十二年前この水俣で生まれました。碧(あお)く輝く海、草花の香り漂う緑豊かな山々、カワセミが勢いよく飛び込む清らかな川、笑顔あふれる人情豊かな人々。素晴らしい環境の中で、私は育ちました。そして、これからもこの故郷「水俣」で成長していきます。
私たちは、自然の中で生かされています。その自然を大切にするのは、当たり前のことです。しかし、私が生まれるずっと前、あたり前のことが見えなくなり、自然や命を犠牲にし、自分勝手な幸せを追い求めたことにより引き起こされた水俣病は、水俣の自然や人々に、大きな試練を与えました。メチル水銀に侵され、破壊された美しい海。体の自由を奪われ、いわれのない差別をうけた患者さんやその家族。水俣出身というだけで、心ない言葉をかけられた人々。幸せな生活を一瞬にして奪われたその苦しみは、私たちが想像できないほどつらいものであったに違いありません。私はこれまで、学校の授業で、「水俣病」について何度も学習してきました。資料や先生の話からそのつらさや苦労は、知識として知ることができました。しかし、昨年、水俣病資料館を見学し、語り部の方のお話をお聞きしたとき、初めて、患者さんやご家族の思いに触れることができたように思いました。
私たちは、その思いを、決して忘れてはいけません。そして、水俣病の原因企業はもちろん、私たちも、水俣病を自分のこととして捉え、そこから目をそらさず、これからどのようにしていくか考え、行動しなければいけません。犯した過ちを心から反省し、被害を与えた自然や人々に心から償い、二度と同じ過ちを起こさないようにしていくことが、今を生きる私たちに与えられた責任なのです。
私は、生まれ育った水俣が大好きです。美しい自然に包まれた、友達がたくさんいる、心落ち着く水俣が大好きです。この教訓をもとに、二度と故郷「水俣」が、悲しい思いをしないよう、水俣病で犠牲になられた多くの方々に、具体的に行動することを誓い、祈りの言葉といたします。
平成30年5月1日
水俣市立水俣第二小学校 多久島 梨央
水俣病犠牲者慰霊式に臨み、水俣病によって、かけがえのない命を失われた方々に対し、心から哀悼の意を表します。
また、長きにわたる大変な苦しみの中でお亡くなりなられた方々、その御遺族の方々、地域に生じた軋轢に苦しまれた方々、今なお苦しみの中にある方々に対し、誠に申し訳ないという気持ちで一杯です。
ここに、政府を代表して、水俣病の拡大を防げなかったことを、改めて衷心よりお詫び申し上げます。
今年で、水俣病の公式確認から六十二年の月日が経過いたしました。今回、水俣病犠牲者慰霊式の出席にあたりこの水俣の地を訪れ、こうしてこの海を目の前にすると、不知火海は常にここに暮らす方々と共にあり、美しく恵み豊かな場所であったのだと、強く感じる次第です。環境が破壊され、甚大な健康被害が生じ、そして地域の皆様の穏やかな毎日や地域の絆、ここに暮らす方々が積み上げてきた地域社会に長く苦難を強いたのが、水俣病であり、この六十二年は、地域の方々が様々な思いや苦しみを抱えながら過ごされてきた時間であると認識しております。本日、改めて、水俣病のような悲惨な公害を二度と繰り返してはならないと、強く決意いたしました。
長い年月の経過により、水俣病の被害を受けた方々や、その御家族の方々が御高齢になられ、日々の暮らしには様々な困難が伴い、将来の生活への不安も生じている中、地域の方々が、将来にわたり安心して暮らしていけることのできる社会を実現していかなければなりません。これまで多くの方々の努力や思いの積み重ねに寄り添いつつ、関係地方公共団体と密に連携し、責任を持って水俣病問題に対して取り組んでまいります。
また、水俣病のような水銀による深刻な環境汚染と健康被害は、世界のいかなる国や地域においても二度と繰り返してはなりません。昨年八月、「水俣」の地名を冠した「水銀に関する水俣条約」が発効いたしました。地域の皆様を始めとする多くの方々の努力により、世界の水銀対策は大きな一歩を踏み出すこととなりました。水俣病を経験した我が国は、世界の水銀対策を牽引していくという重要な役割を担っております。国内の水銀対策を、関係する皆様と連携しながら着実に実施していくとともに、水俣病の経験や教訓を発信し、また、後世に伝えていくことが重要であります。国際社会の中で我が国が先頭に立ち、水銀による環境汚染や健康被害のない世界の実現に取り組んでまいります。
美しい日本、地球を次の世代に引き渡していくことは、重要な課題であり、環境問題に携わってきた私自身強く感じていることです。国として、地方公共団体、事業者、国民の皆様とともに、公害のない、持続可能な社会の実現に向けて、また、恵み豊かな自然環境を保全し、将来に継承していくため、全力で取り組んでいくことを、ここ水俣の地においてお誓い申し上げます。
最後に、改めて、水俣病の犠牲となりお亡くなりになられた方々の御冥福をお祈りし、私の「祈りの言葉」とさせていただきます。
平成30年5月1日
環境大臣 中川 雅治
水俣病犠牲者慰霊式にあたり、水俣病で尊い命を失われた方々の御霊(みたま)に対し、全ての熊本県民とともに、謹んで哀悼の意を表します。
本日は私にとりまして、11回目の慰霊式になります。水俣病の犠牲となられた方々が眠るこの慰霊碑の前に立ちますと、県としてもっと対応が早ければ、もっと深く思いをいたせば、との思いが胸の内から込み上げて参ります。
県民の方々を守るべき知事として、そして一人の人間として、後悔と申し訳なさを深く感じております。尊い命を失われた方はもとより、今もなお、苦しんでおられる被害者や御家族の皆様に対し、熊本県知事として、心からお詫び申し上げます。
私の政治の原点は、水俣にあります。10年前、私は常に弱い立場の方々に寄り添いたいという、知事選立候補の思いをお伝えする最初に場所として、この慰霊碑の前を選びました。それは、この地で起きた自然環境の破壊と、想像を超える水俣病被害の大きさを、直接感じたいと考えたからです。
また、一日も早く水俣病問題を解決するという私の決意を表すためでもありました。そして、知事就任以来、この原点をゆるがすことなく、水俣病の様々な課題に向き合って参りました。
私は、これからも水俣病被害者の方々に寄り添いながら、水俣病問題解決のために全力委を尽くして参ります。
まず、公健法に基づく水俣病の認定審査については、平成25年4月緒最高裁判決を最大限尊重し、私の任期中に1,200件の審査を完了できるよう、丁寧かつ着実に取り組んで参ります。
次に、地域の振興については、地元の皆様と連携しながら、水俣病の教訓を踏まえた「環境モデル都市づくり」や、[第6次水俣・芦北地域振興計画」の力強い取組みを続けて参ります。
さらに、胎児性・小児性患者の方々への支援についてであります。
公式確認から62年となる水俣病の長い歴史は、胎児性・小児性患者の方々とその家族、支援者の方々が歩んでこられた人生そのものであります。
そうした中、先月、水俣病資料館の語り部で小児性患者の前田恵美子さんの訃報に接しました。あまりにも早い、そして突然の知らせに、私は言葉を失いました。前田さんが作られ、天皇、皇后両陛下にも披露された「ピンクの花が好き」のフレーズ、そして、語り部の会の皆様とともに県庁を訪問された時の、優しい笑顔がまぶたに焼き付いています。
御葬儀には私も参列させていただき、愛されていたたくさんの花に包まれて天国に召された前田さんの御冥福を心からお祈りして参りました。
安らかなお顔を拝見しながら、熊本県は、胎児性・小児性患者御本人や御家族の想いを尊重し、住み慣れた場所で安心して生活できるよう、最大限の支援を続けていくことを固く誓いました。
また、昨年8月には、水銀被害防止のための「水俣条約」が発効し、世界各国が連携して水銀の規制に取り組むこととなりました。
これを契機に、水銀による環境汚染や健康被害の根絶に向けた動きが世界中で大きく進むことを期待するとともに、本件独自の取組みである「水銀フリー社会」の実現を、鋭意進めて参ります。
加えて、熊本県には、水俣病のような悲惨な公害が二度と起こらないよう、その経験と教訓を伝えていく責務があります。患者の方々は、今も体調面での不安を抱えながら、公害被害の防止と水銀規制の必要性を強く訴えられています。県としても、県民の皆様とともに、これらをしっかりと発信して参ります。
「自分の家族だったら、我が子だったらどうしますか」。これは私が水俣病患者の方とお会いした際に、御家族から直接問われた言葉です。
この言葉を決して忘れず、これからも、熊本県は被害者の方々に常に寄り添い、水俣病問題に真摯に向き合い、その解決に向けて全力で取り組むことをお誓い申し上げます。
結びにあたり、改めて水俣病犠牲者の方々のご冥福を心からお祈り申し上げ、私の「祈りの言葉」といたします。
平成30年5月1日
熊本県知事 蒲島 郁夫
本日、ここに、水俣病犠牲者慰霊式が執り行われるにあたり、謹んでお亡くなりになられました方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様方に対しまして心より哀悼の意を表します。
当社は、この水俣の地で創業し、今年で百十年を迎えます。これまで水俣市及び周辺市町村の皆様に支えられ地域とともに歩んでまいりました。
しかしながらこの間に、当社の工場廃水に起因する水俣病を惹き起こし、多くの方々が犠牲になられましたこと、地域の皆様に多大なご迷惑をおかけしましたことは、まことに痛恨の極みであり、衷心よりお詫び申し上げます。
当社は、これまで患者の皆様に対する補償責任の完遂を経営の至上命題に掲げ必死の努力を重ねてまいりました。この努力は、今後も決して変わることなく続けて参ります。
事業会社であるJNCもスタートして七年が経ち、更なる収益基盤の安定、強化に努めておりますが、我々を取り巻く環境は、米国の通商政策や中国経済の回復ペースの鈍化、北朝鮮情勢など不透明感が高まる状況となっております。
このような経済環境ではありますが、主力工場である水俣製造所においては、水俣病の反省に立ち、常に環境・安全に配慮しながら、優れた技術で社会の進歩に貢献する先端科学企業として、世の中に求められるものづくりを行っております。このことによって当社の収益基盤を強化し、患者補償責任の完遂と地域社会の発展に貢献できるものと考えております。
また、患者の皆様が安心して暮らしていけますよう、関係自治体が実施される必要な施策にも協力してまいる所存であります。
これらのことが犠牲となられた方々の鎮魂のため、また、国・県ほか関係各位、並びに地域の皆様からお寄せ頂いているご支援に応えるための当社の責務であり、これからも、なお一層の経営努力を重ねてまいりますことをここにお誓いし、祈りの言葉といたします。
平成30年5月1日
チッソ株式会社 代表取締役社長 後藤 舜吉