施設案内

開館時間
午前9時~午後5時まで
入館無料、駐車場無料

休館日
月曜日
(月曜が祝日の場合はその翌日)
年末年始(12/29~1/3)
駐車場
乗用車270台
大型バス15台
(案内はこちら)

※障がい者・高齢者用の駐車場については、事前にご相談ください。

所在地
〒867-0055
熊本県水俣市明神町53番地

TEL
0966-62-2621
FAX
0966-62-2271


※資料館HPに掲載されている写真等について、無断で刊行物、WEB上に掲載することを固くご遠慮申し上げます。


水俣病犠牲者慰霊式

平成26年度水俣病犠牲者慰霊式 式辞・祈りの言葉


水俣市長式辞

水俣病犠牲者慰霊式を挙行するに当たり、水俣病によって尊い生命を失われた方々の御霊に対し、謹んで哀悼のまことを捧げますとともに、本日の慰霊式にご臨席いただきました、ご遺族や被害者の皆様に対しまして、心よりお礼申し上げます。
また、石原環境大臣、蒲島熊本県知事をはじめ、国会議員、県議会議員、近隣市町の皆様、並びに多くの市民のご臨席を賜り、重ねてお礼を申し上げます。

水俣病の公式確認から今年で五十八年を迎えました。五十八年という長い時は過ぎても、かけがえのない家族を失われたご遺族の悲しみと、被害者の方々の苦悩は今もなお続いております。私たちは、これからもご遺族と被害者に寄り添い、尊い犠牲を決して無駄にしないよう努めていくことをお約束いたします。

私は昭和33年、ここ水俣で生を受けました。今年五56歳になりますので、ちょうど胎児性患者の方々と同年代になります。思い起こせば、私が幼い頃の水俣は、多くの人が住み、賑わいのあるまちであったように覚えています。

しかし、その中で、水俣病の悲劇もはじまっていたのです。その時期は、今のように水俣病について学ぶことや語り合うことが、ほとんどありませんでした。水俣病を正しく理解していなかったので、よそに行っても水俣出身と言うことに自信が持てず、差別的なことを言われても言い返すことができなかった悔しさが私にもあります。

しかし現在では、しっかりとした水俣病に関する学習が行われるようになり、子どもたちの水俣病に対する理解と知識は深まっています。私の子ども時代とは違って、自信を持って社会に送り出せる力を水俣の子どもは持っていると確信しています。

子どもたちは、将来の水俣の力強い希望です。この子どもたちのために、今私たち大人がすべきことは、水俣病にきちんと向き合い、「水俣に生まれてよかった」と皆が言える地域をつくっていくことです。そのために、これまで取り組んできた「もやいの心での対話を続け、考え方や立場の違いを超えて、お互いを理解し合える関係を築き上げなくてはなりません。水俣病でお亡くなりになられた方々やご遺族、被害者の皆様が真に報われるよう、住民協働で明るく希望ある将来を目指していきたいと思います。

さて昨年10月、国や熊本県をはじめ、関係の皆様のお力添えにより「水銀に関する水俣条約外交会議」と「全国豊かな海づくり大会」の二つの歴史的行事を開催することができました。水俣条約外交会議では、国連環境計画UNEPのアキム・シュタイナー事務局長から、「水俣は悲劇の起きた場所としてだけでなく、未来に向けた物語としても記憶に残る」というコメントをいただき、環境に配慮したまちとして国際的にも認知されることとなりました。水俣条約という条約名で採択署名されて心より良かったと思っています。

また、天皇皇后両陛下をお迎えした「全国豊かな海づくり大会」では、限られた時間にも関わらず、両陛下は慰霊碑に供花をされました。天皇陛下は、ここからの眺めを、「慰霊碑の先に広がる水俣の海青くして静かなりけり」とお詠みになりました。穏やかで安心して暮らせる地域社会を願ってくださった天皇陛下が、その状景を青く静かな水俣の海に例えていただいたのでは、ないかと思っています。私たちは、天皇陛下のお言葉をいつまでも大切にして、地域社会の再生と振興に努めてまいります。

水俣で生まれ、水俣で育ち、水俣で生きていく者の一人として、私はこれからも水俣病と向き合っていきます。そして、水俣の貴重な経験と教訓を国内外に発信し、環境と経済が両立した「環境首都輝く水俣」を形成していきます。

結びに、お亡くなりになられた、皆様のご冥福を、心からお祈り申し上げ、式辞といたします。

平成26年5月1日

水俣市長 西田 弘志



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水俣病患者・遺族代表 「祈りの言葉」


 「俺が鬼か…。親父は…69で死んだぞ…。精神病院の…、畳もなか部屋で…、牢屋のごたる檻の中で…誰にも看取られず…一人で死んだぞ…。やせ細った親父の身体を抱いて俺は、情けなくて…一人泣いたぞ…。ひと匙なりと米の粥ば、口に入れてやろうごたった…。その米を買う銭もなかった…。わかるかな…社長…。」自主交渉派のリーダーとして、チッソ本社に座り込んだ父川本輝夫は、行き詰った交渉の席で、島田社長に対して水俣病で狂い死にした祖父のことを、涙にむせびながら独り言のように語りかけました。

父の闘いは、不条理に奪われた人間としての尊厳と生活を、名前を持った一人ひとりのその手に取り戻すことにありました。

 昭和46年12月6日、父は「一週間くらいで帰ってくるばい。」と私たち家族に言い残して、チッソとの自主交渉のために東京に向かいました。しかし、父が家に帰ってきたのは1年9ケ月後でした。私は中学2年生から3年生、そして高校生へ、妹は小学5年生から6年生、そして中学生になっていました。多感な思春期の真只中のことです。東京で激しい交渉が続き、父たちがニュースにでると、その夜中には決まって家に嫌がらせ電話がありました。夜中の2時3時です。父は、チッソとの自主交渉で東京にいましたので、母と私と妹の3人暮らしでした。恐る恐る電話に出ると「バカ」と言って切れます。葉書は、住所も熊本県川本輝夫で届きました。葉書の裏には、「死ね」と大きく書いてありました。また、朝起きたら玄関に消火器が置いてあったことも覚えています。これ以上水俣病事件でチッソを責めると火をつけるぞと言う脅しです。このような状況だったので、母は私たちに、懐中電灯を一つずつ抱かせて寝かせていました。夜、暴漢が家に入ってきた時は、懐中電灯を頼りに裏口から隣の家に逃げ込むようにと言い聞かせていました。

 父は、過酷な闘いの中で3回も逮捕されました。しかし、全て無罪です。また、自宅の家宅捜索は2回受けました。子ども心にも大変悔しく悲しかったことを覚えています。このような過酷な環境でしたが、私たち兄弟は、いつも胸をはって生きてきました。母が私たちに「父ちゃんはえらかっぞ。いつも人のために闘っている。」と教え続けたからです。

父は、「水俣病は底の深かぞ。どこらあたりが底か。洗い出してくれる。」と口癖のように言っていました。祖父は、昭和40年4月に狂騒状態で亡くなりました。しかし、未だ未認定です。父は、認定されましたが、自身の認定後も患者救済に生涯をささげ平成11年2月に亡くなりました。父は「熱意とは、ことある毎に意志を表明することに他ならない。」という言葉を残してくれました。私は、信念に生きた父と支えきった母を誇りに思います。

母は、父の死後、平成14年1月から、私は、平成20年5月から水俣病資料館の語り部をしています。ある時私の語り部の後、小学5年生の男の子が「川本輝夫さんは長い闘いをしてこられたのですね。」という感想を述べました。長い闘い…、何という言葉でしょう。未来を託す子どもたちに「長い闘い」と思わせることに、大人として言葉にできない悔しさと責任を痛感します。父が自主交渉の闘いを始めた年と同じ昭和46年7月に、現在の環境省の前身となる環境庁が発足しました。今年で発足43年目を迎えますが、歴代の長官・大臣を通算すると、本日ご出席してくださいました石原伸晃環境大臣は58代目となられます。

加害責任が確定した国や県、チッソもそれぞれの立場で、これからも、また長い闘いをしていかれるのでしょうか。

公式確認から58年経った今も課題が残されたままです。国は、6万5千人もの申請者が出た特措法を、まだ申請者が出る可能性があるのにあえて締め切りました。その結果、公健法認定申請をする患者が増えている現実があります。また、継続中の裁判や新たに提訴する患者がいます。原田先生は、一貫して住民の水俣病検診を国に提言してこられましたが、今まで一度も実施されていません。

私たちが今立っているこの場所は、かつて魚湧く豊穣の海でした。25ppm以上という高濃度の有機水銀を含んだヘドロと、3000本のドラム缶に詰め込まれた水銀に汚染された魚たちが足元に眠っています。

ヘドロを封じ込めたしきりの鉄板の耐久性は、約50年と言われており既に半分の26年が経過しました。何かに似ていないでしょうか。事故を起こした福島第一原発でも、同じようなことが計画され、原発の廃炉工程は、これから数十年先まで続くと言われています。

福島でも、「己の尊厳と生活をその手に取り戻す」長い長い闘いを第二世代、第三世代、第四世代と世代を超えて続けることになるのでしょうか。これからも被害者は、被害者であるがゆえに人生をかけて「長い闘い」をしていかなければならないのでしょうか。

水俣病事件の教訓とは何でしょうか。私は、未来を担う子どもたちに、「長い闘いがあったが、当事者が真実に生きることで過ちは謝罪され、罪は償われ、責任は果たされた。そして皆が幸せに暮らせるようになった。」と胸を張って言えるような水俣をそして日本を受け渡したいと切に願います。

本日は、水俣病事件の犠牲になられました御霊の前で、私なりの祈りを捧げました。父・川本輝夫もこの地に奉納されています。犠牲になられました全ての患者さんと生命に対し心よりご冥福をお祈りいたします。また、ご参列くださいました皆様方、本日の慰霊式にご尽力くださいました皆様方に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

 

平成26年5月1日

 患者遺族代表 川本愛一郎




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児童・生徒代表 「祈りの言葉」


 僕たちは、小学生の頃から水俣病学習に取り組んでいます。特に水俣病資料館ではたくさんの資料を見たり、説明を聞いたりすることで、多くのことを学びました。水俣病は戦後の高度経済成長の中、地球環境への配慮に欠けた、大人たちの行動によって発生しまったこと、そのためにきれいだった水俣の海が、瞬く間に有機水銀によって汚染されてしまい、多くの尊い生命が犠牲となってしまったことなどを知りました。

また、中学一年生の時には、実際に、患者さんの話を聞く機会がありました。その患者さんの話から、健康を奪われた苦しさや多くの偏見、差別を受けたつらさを知ることができました。そして、今、水俣病を教訓として多くの人々に発信している、患者さんの強い生き方に心を打たれました。

多くの患者さんを苦しめ、その生活を大きく変えてしまったもの、それが「水俣病」でした。その水俣病が公式確認されてから、今年で五十八年を迎えました。

昨年の十月十日には、水銀の使用や排出を減らし、水銀による健康被害を防ぐことをめざした「水銀に関する水俣条約」ができ、ようやく、水銀の国際的な規制が始まったと聞きます。日本をはじめ、多くの国がこの条約に賛同し、一日も早くその効力を発することができるようになってほしいと思います。

 ところで、昨年の十二月、僕たち水俣市の中学生の代表は、福島県の中学生と交流する機会がありました。その時、東日本大震災の放射線の影響もあり、地元の野菜や魚が売れないという現状を知りました。そのような「風評被害」による苦しみは、水俣が背負ってきた苦しみと全く同じものでした。福島の中学生が強く言っていたのは、「被災地の正しい現状をもっと多くの人に知ってもらいたい」ということでした。

そこで、僕たち水俣の中学生は福島の中学生に水俣が歩んできた道を話しました。この交流会を通して、風評被害による過ちを繰り返さないためには、水俣と福島の中学生が力を合わせて、周りの人に正しいことを伝え、広めていかなければならないのだと強く思いました。

 辛く、苦しい体験をした水俣は、今、環境モデル都市として全国に名を知られるようになりました。

 僕の通っている水俣第二中学校でも、環境への取り組みを行なっていますが、地域の方々と一緒に行うゴミ分別収集活動は既に十八年目を迎えました。他にも環境検定、環境ISOだよりの発行などに力を入れています。一昨年には、その活動が認められ、全国の中で、環境美化教育優良校に選ばれました。環境への取組によって環境に対する意識や自覚を高めるだけでなく、地域とのつながりが生まれ、思いやりの心を育むことができています。

 みなさんは、水俣の良いところを聞かれたら何と答えますか。僕は迷わず「きれいな海、豊かな自然です。」と答えます。僕は、この美しい故郷水俣が大好きです。この大好きな水俣のために今も、これからも、僕たちに「何ができるのか」「何をすべきなのか」を考えていきたいと思います。

また、今からの未来をつくっていく僕たちは、これまでの学習を元に、患者さんの思いを受け止め、考えを行動に移していく責任もあると思います。

 本日、ここに水俣病によって大切な命をなくされた多くの方々のご冥福をお祈りし、今も病と闘っておられる患者さんとともに、水俣病の経験を貴重な教訓として、水俣をさらによい街へ発展させていくことを心より誓い、祈りの言葉とさせていただきます。 

平成2651

水俣市立水俣第二中学校 福島 遼太郎




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環境大臣 「祈りの言葉」

 

水俣病犠牲者慰霊式に臨み、水俣病によって、かけがえのない
命を失われた方々に対し、心から哀悼の意を表します。

また、長きにわたる大変な苦しみの中でお亡くなりになられた方々、その御遺族の方々、地域の軋轢に苦しまれた方々、今なお苦しみの中にある方々に対し、誠に申し訳ないという気持ちで一杯です。ここに、政府を代表して、水俣病の拡大を防げなかったことを、改めて衷心よりお詫び申し上げます。

私は、先日、福島を訪れた際に、水俣との交流事業に参加した
中学生たちの作文を拝読する機会がありました。ある一人の中学生の感想文に、こんな一節がありました。

「教科書のかたすみにある水俣病の文字。このたった3文字の言葉の裏には、数々の悲劇があることが分かりました。」と。

そのとおりだと思いました。

 私は、豊かで美しい不知火海を望むこの地に立つ度、海が汚され、甚大な健康被害と環境汚染が生じ、平穏な地域社会に長年にわたり不幸な亀裂がもたらされたこと、まさに「数々の悲劇」が起きてきたことに、思いを致してきました。そして、水俣病のような悲惨な経験を二度と繰り返さないとの決意を新たにしてきました。

ここに、国として、責任を持って水俣病問題の解決に全力を挙げて取り組み、地域の皆様が将来にわたって、安心して暮らしていける社会を実現していかなければならないという思いであることを、改めて申し上げます。

そのために、国として、引き続き、関係地方公共団体と連携しながら、認定患者の方々への補償に万全を期しつつ、胎児性・小児性患者の方を始めとする方々への医療・福祉の向上に努めてまいります。また同時に、失われた地域の絆の修復、いわゆる「もやい直し」も引き続き進めてまいります。

 我が国は、水俣病問題の経験を深く胸に刻んで、国、地方公共団体、事業者、国民が環境問題に取り組んできました。水俣は、現在では、風光明媚な自然を取り戻し、市民の環境意識は非常に高く、世界の環境再生のモデルとなりました。

 昨年10月には、世界のいかなる国においても、水俣病のような公害を繰り返してはならないという決意の下、この水俣の名を冠した「水銀に関する水俣条約」が採択されました。国としても、水俣を拠点として、水俣病の教訓、水銀対策に関する技術を世界各国に提供していきたいと考えています。

国として、地方公共団体、事業者、国民の皆様とともに、公害のない、持続可能な社会の実現に向けて、また、恵み豊かな自然環境を保全し、将来に継承していくため、全力で取り組んでいくことを、ここ水俣の地においてお誓い申し上げます。

 最後に、改めて、水俣病の犠牲となりお亡くなりになられた方々の御冥福をお祈りし、私の「祈りの言葉」とさせていただきます。

平成26年5月1日

環境大臣 石原 伸晃




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県知事 「祈りの言葉」


水俣病犠牲者慰霊式にあたり、水俣病の犠牲となり、尊い命を失われた方々の御霊を前に、熊本県民とともに、謹んで哀悼の意を表します。

水俣病によって、ご家族の貴重な命や健康が奪われ、また、自らも健康を損なわれるなど、その言葉に尽くしがたい苦しみや深い悲しみは、長い年月を経ても癒されるものではありません。

 水俣病に向き合う時、県としてもう少し対応が早ければ、もう少し深く思いをいたせばとの気持ちが常に湧き起こります。本来、被害を受けられた方々を守る立場にある地元の知事として、また一人の人間として、後悔と申し訳なさを深く感じ、ここに改めて衷心よりお詫び申し上げます。

水俣病公式確認から五十八年を迎えます。この間には、多くの方々の苦悩の歴史があります。その中で、私も悩み、迷いながら、被害者の方々のご労苦に思いをいたし、その無念さに少しでも応えようと行動しております。

昭和四十八年に被害者の方々に対する補償制度として、「公害健康被害の補償等に関する法律」が成立しましたが、今なお、水俣病の認定申請は続いております。私は、救済を求められる方々がいらっしゃる限り、この公健法の世界を閉じてはならないと考えております。

しかしながら、水俣病認定業務を担う本県にとって、昨年四月の最高裁判決以降の動きの中で、公健法に基づく審査を続けることが困難な状況に至りました。悩みに悩んだ末に、県の認定審査に代わって、国へ、臨時水俣病認定審査会の設置と開催を求めました。

今後は、早期の国による審査に期待するとともに、本県としても、審査が円滑に進められるよう、必要な準備については、引き続き最大限の努力をして参ります。

 一方、特措法による救済については、審査の最終段階に入っております。引き続き、お一人でも多くの方が救済を受けられますよう、丁寧な判定を進めて参ります。

また、健康に不安をお持ちの方には、関係する市や町の窓口で、そのお声に真摯に耳を傾け、ご希望の方には、健康診断を奨めて参ります。

 更に、胎児性、小児性の患者の方々については、御本人はもとより、介護を担われる御家族も高齢となられ、早急な対応が喫緊の課題となっています。

 このため、これまでに緊急時の対応や、二十四時間の介護サービスの実現を図って参りました。

また、今年三月には、街中で仲間と共に暮らしたいとのご希望に応え、ケアホームを新たに整備するとともに、明水園での生活の質を一層高めるために、個室の整備も行いました。

 今後も、私自身が、患者の方々や御家族の皆様のお声をしっかりと受け止め、より一層安心してお暮らしいただけるよう対応して参りたいと考えております。

最後に、地域全体の再生・振興についてであります。

「公害の原点」とも言われる水俣病を経験した県としましては、同じような悲劇が二度と繰り返されないよう、国内外へ、また次世代へ、水俣病の歴史や教訓を伝えていく責任があると考えております。

このことから、昨年十月、「水俣条約外交会議」において、私は世界に向かって「水銀フリー熊本宣言」を行いました。

今後、本県は率先して、水銀を使用しない「水銀フリー社会」の実現に向けた取組みを進めて参ります。

さらに、水俣病の教訓を踏まえた「環境モデル都市づくり」や、水俣・芦北地域振興計画の着実な実施など、地域の再生・振興についても、地元の方々とともに力強い取り組みを重ねて参ります。

「あまたなる 人の患ひのもととなりし 海にむかひて魚放ちけり」

昨年十月に皇后陛下と「全国豊かな海づくり大会」に御臨席を賜った天皇陛下が、お詠みになられたものです。

私はこの御製の歌を通して、水俣病の被害に遭われた多くの方々への両陛下のお気持ちを深く感じるとともに、改めて「水俣病被害者の方々の目線に立つ」ということを心に刻みました。

熊本県は、これからも水俣病問題に真摯に向き合い、被害者の方々に寄り添い続けることをここに固くお誓い申し上げ、私の「祈りの言葉」といたします。 

平成26年5月1日

熊本県知事 蒲島 郁夫




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チッソ株式会社代表 「祈りの言葉」

 

本日、ここに、水俣病犠牲者慰霊式が執り行われるにあたり、謹んでお亡くなりになられました方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様方に対しまして心より哀悼の意を表します。

当社は、この水俣の地で創業以来、106年に亙り水俣市及び周辺市町村の皆さまに支えられ地域とともに歩んでまいりました。

しかしながらこの間に、当社の工場廃水に起因して水俣病を惹き起こし、多くの方々が犠牲になられ、住民の皆さまにも多大なご迷惑をおかけしましたことは、まことに痛恨の極みであり、ここに哀心よりお詫び申し上げます。

当社は、これまで患者の皆様に対する補償責任の完遂を経営の至上命題に掲げ必死の努力を重ねてまいりました。

平成21年には「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」が制定され、環境省、熊本県、鹿児島県を始めとする多くの関係者の方々の多大なご尽力により、救済を進めていただいております。

そして、これからも患者の皆様が安心して暮らしていけますよう、関係自治体が検討される必要な施策にも協力してまいる所存であります。

昨年の政府によるデフレ脱却宣言、日銀の異次元金融緩和が功を奏し、日本経済のムードは以前に比べて大きく変わってまいりました。しかしながら、不安定極まりないグローバル経済や激しい市場競争など我々を取り巻く環境は、依然、厳しいものがあります。そのような中で、水俣製造所は、グループの主力工場として、また、地域の一員として、今後とも世の中から求められる製品を揃え、水力発電を始めとする環境に配慮した再生可能エネルギーの供給を行うことで、収益基盤を強化し、地域の発展に努力してまいります。

当社がこれまで関係先から受けたご支援は、「補償の完遂と地域経済・社会の安定に資する」という責務を果たすためのものと認識しております。

犠牲となられました方々の鎮魂のため、また、国、県及び地域の皆様方からいただいておりますご支援にお応えするため、なお一層の経営努力を重ねてまいりますことをここにお誓いして、祈りの言葉といたします。

平成26年5月1日

チッソ株式会社 代表取締役 森田 美智男


 



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