施設案内

開館時間
午前9時~午後5時まで
入館無料、駐車場無料

休館日
月曜日
(月曜が祝日の場合はその翌日)
年末年始(12/29~1/3)
駐車場
乗用車270台
大型バス15台
(案内はこちら)

※障がい者・高齢者用の駐車場については、事前にご相談ください。

所在地
〒867-0055
熊本県水俣市明神町53番地

TEL
0966-62-2621
FAX
0966-62-2271


※資料館HPに掲載されている写真等について、無断で刊行物、WEB上に掲載することを固くご遠慮申し上げます。


水俣病犠牲者慰霊式

平成25年度水俣病犠牲者慰霊式 式辞・祈りの言葉


水俣市長式辞

 
 水俣病犠牲者慰霊式を挙行するに当たり、水俣病の発生によって犠牲となり、尊い生命を失われた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。
 本日の慰霊式に、ご遺族や被害者の皆様、石原環境大臣、蒲島熊本県知事を始め、国会議員、県議会議員、近隣市町の皆様並びに多くの市民のご臨席を賜り、お祈りを捧げていただきますことに、心からお礼を申し上げます。
 水俣病公式確認から57年目の穏やかな不知火海を背に、今回で22回目となる慰霊式を迎えました。私たちの安らかな平安への祈りの思いは、犠牲になられた方々の御霊に届き、地域の再生と融和を見守っていただいていることと固く信じております。
 しかしながら、今もなお、悩み苦しんでおられるご遺族と被害者の皆様に向き合うとき、表現しがたい、深い悲しみを禁じえません。私たちは、水俣病の経験を忘れてはならないのです。苦しみの中にある方々の痛みを自らの痛みとして受け止めなくてはなりません。起こったことをしっかり受け止めながら生きていかなければなりません。
 もう触れたくはない、思い出したくはない、つらい出来事でしょう。しかし水俣病の経験と教訓を活かし伝えていくことは、水俣市の使命であり、そのことが新たな水俣を築いていくことでもあります。そして、住み慣れたところで、笑顔が飛び交う中で、暮らしていただけるよう、助け合い、支えあい、温かい心を重ねあいながら、水俣に生まれてよかった、水俣に生きてよかった、と思えるまちを作っていかなければなりません。
 水俣市は、命の尊厳を基盤として、世界に誇れる環境のまちを目指して必死に取り組んで参りました。今では日本唯一の「環境首都」の称号を得るまでになりました。この環境配慮の取り組みは、言うまでもなく「水俣病の被害を無駄にしない」「悲劇を二度と繰り返さない」という決意のもと、平成4年の「環境モデル都市づくり宣言」からスタートしました。今年の秋には、これらの取り組みの成果を計り知る大きな行事が予定されています。
  一つは、天皇皇后両陛下においでいただく予定の「全国豊かな海づくり大会」の放流事業であります。甦った水俣の美しい海を全国に伝えなくてはなりません。さらには、地域の活性化・振興につなげていきたいと思います。
 もう一つは、世界140カ国から800名の方がいらっしゃる「水銀に関する水俣条約外交会議」です。世界の人々に向けて、残された課題も含めた水俣病の経験と教訓を正しくお伝えし、加えて、住民協働で真の環境首都を形成していく今の水俣の姿も世界へ向けて強く発信していきたいと思っております。
 人は、その人生の中で悲しみに打ちひしがれることがあります。しかし同時に、人は明日への希望があるからこそ、力強く生きていくことができます。今一度、新たな気持ちで、市民ひとりひとりが、命と環境を大切にし、心をそろえ、前向きに力強く進んでいかなくてはなりません。そうすることで、真の豊かさを感受できる水俣のまちが生まれるはずです。また、そのことが、環境首都みなまたとして責任ある行動でもあり、水俣病の真の解決につながると思います。
 結びに、水俣病の犠牲を決して無駄にしないよう、希望に満ちた水俣づくりに努めていくことを重ねてお約束いたします。
 ここに、犠牲者の皆様のご冥福をお祈り申し上げ、式辞といたします。


平成25年5月1日
水俣市長 宮本 勝彬 


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水俣病患者・遺族代表 「祈りの言葉」


 ここに、患者・遺族代表として、祈りのことばを捧げます。
 思い起こせば、結婚したのは、20歳の時でした。当時、夫は、運送会社に勤めていて、家の前がすぐ海だったので、出勤する前にいつも浜に行き、カニやカキをいっぱい取ってきてくれていました。そして、結婚して間もなく、長男がうまれました。その長男が2歳になる昭和28年4月に、よろめいて歩くことができなくなったので、いくつも病院を回りましたが、どうしようもありませんでした。
 ところが、1年後には、元気だった夫も発病してしまいました。そして、熊本大学病院に行くように勧められて、8月に行ったら、そのまま入院、大学の先生も原因がわからず、気休めのペニシリン注射ばかりでした。
 その頃生まれた次男は、私たちに話しかけることもなく、たった29日で亡くなりました。日晴れの準備もしていましたが、一度も袖をとおさなかった着物は、一緒にお棺の中に入れました。
 夫は、2ヶ月ぐらいで大学病院を退院しました。ところが、1年後、夫の容態が急に悪くなり、大学病院に入院しました。今度は、うまく話すこともできなくなり、一日一日症状はひどくなっていきました。けいれんして苦しむ夫を見ているのがとてもつらくて、涙が止まりませんでした。先生に「どうにかしてください。助けてください。」とお願いすると、先生も「治療は病院に任せてくれ。」と言われましたが、治療室には身内が入れないと聞いていたし、みんなから見られている夫もみじめだと思い、どうしても夫を大学病院に置いていくことができなくて、家に連れて帰りました。
 家に帰って2週間後でした。激しいけいれんがひっきりなしに夫をおそい、もがき苦しむ夫を、ばあちゃんが、もう最後だと思い抱きかかえた時、けいれんをしながら、ばあちゃんの胸で息を引き取りました。昭和30年5月でした。その時、私は妊娠7ヶ月でした。もう、子どもはあきらめようかと思いましたが、ばあちゃんに「せっかく授かった子どもだから、産まんね。」と励まされ、三男を産みました。三男は、百日たっても半年たっても一年たっても、首がすわりませんでした。どんな病気なのか心配していたら、後で胎児性水俣病と分かり驚きました。幼い子どもとばあちゃんとの生活はとても苦しくて、その日の暮らしがやっとでした。
 三男が生まれて、うちの長男が入学前の頃だったと思います。家の上の道で、兄弟が遊んでいたそうです。そこへ原田先生が来て「うちはどこ?」って。兄弟が先生をうちに案内して、私に「兄弟二人とも水俣病ですね」って尋ねられ、私は「上の子は水俣病ですけど、下の子は違いますよ。」と言うと、「どうして?」とさらに尋ねられるので、「どうしてって、先生方がそう言ってるでしょ。下の子は魚を食べてないからって。私はそう思いません。私の食べた魚の水銀が、おなかの中にいたこの子に入ったに違いないとです。」って言ったそうです。このときが原田先生と胎児性患者の運命的な出会いとなったようです。原田先生が亡くなられる1週間前に最後のあいさつにいきました。原田先生は昨年お亡くなりになられるまで50年間ずっと水俣に通われて、三男をはじめ胎児性患者のよき相談相手になっていただきました。
 三男は、20代の頃ははまだ歩いていました。街に行って仲間のみんなとお酒を飲みにいったりしていました。しかし30代に入り、だんだんと歩くことができなくなりました。立つことができなくなり、話す言葉も聞き取りにくくなってきました。40代から車イス生活となっています。家にいるときは、お風呂に入るのも大変でしたが、今は毎日、胎児性患者の皆さんも通う「ほっとはうす」という施設に行ってますので、助かっています。
私も、もうすぐ82歳になります。毎日、子供たちのこれからが、とても心配です。皆さんのお力を借りなければやっていけません。
 三男は、仲間の人たちと一緒に、「ほっとはうす」で、訪問してくださる皆さんと交流するのを、楽しみにしています。みんなと一緒に学校とかに出かけることもあります。
私たち家族は、水俣病にふりまわされた日々でした。辛い思いもしましたが、精一杯生きてきました。亡き夫も遠くから見守ってくれていると思います。
 私は世界中の女性に、私のような妻として母としての苦しみを、決して味わってもらいたくないと思い、水俣病資料館の語り部になりました。これからも体の許す限り語り続けてまいります。子どもたちが生きている限り、水俣病は終わりません。
 どうか最後の一人になっても忘れないでください。
 水俣病で亡くなられた多くの患者の皆さん、どうぞ安らかにお眠りください。

平成25年5月1日
                            水俣病患者・遺族代表  金子 スミ子



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児童・生徒代表 「祈りの言葉」


「水俣は一つの小さな地球のようだ」と言われた方がいます。
 水俣という一つの地域の中で、とても大切な水が沸き出し、川となって育ち、私たちの暮らしを潤し、やがて大海原へと注いでいきます。
 私たちの水俣第一中学校では「海・山・川学校」という学習を通して、奥山の石清水がいつしか大きな流れとなり水俣の海と一つになっていく過程を学びました。
 そして、上流の方々が、清らかな水が届けられるよう、その先にある海を汚さないように、と必死で頑張っていらっしゃる姿や、下流に住まわれ海と共に暮らす方々も、山に木を植え、海の栄養が豊かになるようにし、海を蘇らせていらっしゃる姿に感動し心を打たれました。
 水俣一中では、昨年から福島の郡山第四中学校と交流を始め、夏休みには一緒に水俣の海に潜りました。福島の友人達も感動していた水俣の海は澄み切っていて魚たちが生き生きと泳いでいる美しく豊かな海でした。
 この豊かで美しい海を汚してしまい、一度は生き物の住めないような海にしてしまったのも私たち人間であり、またこの豊かで美しい海を守り、未来へ引き継いでいくのも私たち、人間しかいません。
 昨年12月、私は福島の地を訪ねる機会を得ました。そこで、福島の友人達が風評被害にあっている事実を知り、苦しみを背負っていることを知りました。それは、水俣が背負ってきた苦しみと同じでした。これまで、放射線による影響で人間だけではなく様々な生き物が被害を受けているにもかかわらず、人間は学習することなく、水俣と同じような過ちを繰り返していることに、私は憤りを感じました。
 「時計の針」は、もう元には戻せません。だからこそ、私たち水俣の子どもたち、そして福島の子どもたちが先頭を走り、二度と、同じ過ちをおこさないような未来をつくっていくしかないと考えます。
 昨年、この世を去られた、原田正純先生は「見てしまったもの、知ってしまったものとしての責任を取りたい」と、患者さん達に寄り添い、その人生の大半を水俣のために捧げてこられたことを知りました。
 そこで、私は、水俣で生まれ育ったもの達の「責任」は、一体何であるかと考えました。私たちの「責任」はこの故郷水俣で起こったことから、決して目を背けず向き合う事だと思います。私たちは、小学生の頃からこれまで水俣病学習に取り組んできました。小学生の頃の私は水俣病学習をする事に対して真剣に向き合うことが出来ていませんでした。しかし、中学生になり実際に福島で水俣について伝える立場となったとき、語り部の方や、ほっとはうすの方との交流で学んだ事が鮮やかに蘇りました。それは、病気に負けることなくたくましく生きておられる患者さん達の姿や、水俣病の教訓に学び環境のことを考えてより良くしていこうと水俣の人々が手を取り合って頑張っている姿の事でした。そして、その事を伝える中で、これまでの学習の持つ意味を強く実感する事ができました。これからも、この学びをしっかり自分のものにし、「水俣病」を過去の記憶として、風化させないように次の世代に伝えていきたいと思います。
 私は、この美しい海・山・川を持つ故郷水俣が大好きです。そしてまた今の暮らしだけではなく50年後、100年後の未来の水俣の事を考えて、その美しい海・山・川を守る活動を続けている水俣の人々を誇りに思います。
 私たちは「水俣病」から学んだことを、犠牲となられたたくさんの生命の意志として受け継ぎ、水俣、そして水俣の海とつながる「世界」で、二度と同じ過ちを起こさないような未来をつくっていくことを誓い、祈りの言葉といたします。

平成25年5月1日 
                        水俣市立水俣第一中学校 草野 優萌



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環境大臣 「祈りの言葉」

 
 水俣病犠牲者慰霊式に臨み、水俣病によって、かけがえのない命を失われた方々に対し、心から哀悼の意を表します。
 本日、この地に不知火海という魚湧く豊穣の海を見るに及んで、かつて、このすばらしい海が汚され、甚大な健康被害と環境汚染が生じ、平穏な地域社会に長年にわたり不幸な亀裂がもたらされたことに、思いを致さずにはいられません。
 長きにわたる大変な苦しみの中でお亡くなりになられた方々、その御遺族の方々、地域に生じた軋轢に苦しまれた方々、また、今なお苦しみの中にある方々に対し、誠に申し訳ないという気持ちで一杯であります。
 ここに、政府を代表して、水俣病の拡大を防げなかったことを、改めて衷心よりお詫び申し上げます。
 国として、責任を持って水俣病問題の解決に全力を挙げなければならないという思いであることを改めて申し上げます。
 公式確認から57年という長い年月を経た今日に至るまで、水俣病問題の解決に関して様々な方が努力されてきており、その努力に心から敬意を表したいと思います。
 「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」に基づく救済措置については、現在、関係地方公共団体においてその対象者の確定を進めて頂いています。
国としては、これを以て水俣病問題の解決とは思っていません。全ての被害者の方々はもとより、地域の皆様が将来にわたって、安心して暮らしていけることが必要です。
 そのため、関係地方公共団体と連携しながら、認定患者の方々への補償に万全を期しつつ、胎児性・小児性患者の方を始めとする方々への医療・福祉の向上に努めてまいります。
同時に、失われた地域の絆の修復、いわゆるもやい直しも引き続き進めてまいります。
 さらに、公害問題、環境問題の原点である水俣が、世界の環境首都として、環境対策と地域の発展が好循環し、成長するまちづくりを実現し、全国へ、そして世界へ水俣モデルを発信できるよう、地域の皆様による取組を全力を上げて支援してまいる決意であります。
 また、我が国は、世界のいかなる国においても、水俣病のような公害を繰り返してはならないという決意の下、地球規模の水銀汚染を防止するための条約づくりに貢献してきました、今年10月には、本年1月にジュネーブで合意された「水銀に関する水俣条約」の採択・署名のための外交会議を熊本市及び水俣市で開催するはこびとなりました。
 環境省としては、この「水俣条約」を契機に、水俣病の教訓、日本の経験や技術はもとより、現在の水俣の新しい姿を積極的に発信していきます。
 水俣病のような悲惨な経験を二度と繰り返さないようにしていくことが大切です。国としても、地方公共団体、事業者、国民の皆様とともに、公害のない持続可能な社会の実現のため、また、恵み豊かな自然環境を保全し、将来に継承していくため、全力で取り組んで行くことをここにお誓い申し上げます。
 最後に、改めて、水俣病の犠牲となりお亡くなりになられた方々の御冥福をお祈りし、私の「祈りの言葉」とさせていただきます。

平成25年5月1日
                                   環境大臣 石原 伸晃



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県知事 「祈りの言葉」


 本日ここに、水俣病犠牲者慰霊式が執り行われるにあたり、尊い命を失われた方々の御霊を前に、熊本県民とともに、謹んで哀悼の意を表します。
 併せて、県民お一人おひとりの生命や健康を守る立場である本県が、水俣病被害の拡大を防止できなかったこと、また、患者や御親族の皆様方に、長きにわたり、身体の痛みはもとより、心にも大きな苦しみを強いてしまったことに対し、その責任を深く自覚し、衷心よりお詫び申し上げます。
 また、去る4月16日に、水俣病に関する二つの最高裁判決が言い渡されました。苦しみと無念の思いの中でお亡くなりになった原告の方を始め、その苦難をともに耐え忍び、支えてこられた御家族の皆様方に対し、心からお詫びを申し上げます。
 水俣病に関して下されたいずれの最高裁判決についても、これを厳粛に受け止めることは当然であります。
 言うまでもなく、知事である私は、法定受託事務の執行者であるとともに、県民から選ばれ、県民の健康や安全を守る責任者であり、また一人の人間でもあります。
 様々な立場と、それに伴う様々な思いがあり、今、一つひとつの課題に対して、どの様に考え、どの様に行動すべきか、悩み、呻吟する最中にあります。
 まず、公健法に基づく水俣病認定制度については、今後、最高裁判決で判示された「多角的、総合的な見地からの検討」の具体化について、国とともに、県としても積極的に関与していきたいと考えております。できるだけ早期に道筋をつけることで、より一層、水俣病問題の解決につながるよう、最大限の努力をして参ります。
 また、特措法による早期救済を求める方々についても、可能な限り、迅速に判定手続きが終了できるよう、努力を重ねて参ります。併せて、健康不安を抱えておられる方々には、引き続き、身近な場所で様々なご心配をお聞かせ頂くなど、丁寧な対応を行って参ります。
 次に、胎児性・小児性の患者の方々についてですが、私は、昨年、改めて患者や御家族の皆様方と直接お会いし、現在そして将来の暮らしについて、それぞれの悩みをうかがいました。
 時の経過とともに、患者の方々や、介護をなさる御家族も高齢になられ、将来に亘って安心・安全な生活支援体制の整備が喫緊の課題となっております。
 このため、今年度、地域の中で患者の方々が、共に暮らしていただける住まいの場の整備に取り組みます。また一方で、ご自宅に住み続けたいと望まれる方もおられます。これらの方々には、住宅を改造される場合の支援を充実するとともに、24時間の介護サービスを提供できるように致しました。
 今後も、患者や家族の方々の御意見や御要望をしっかりと受け止めながら、より一層の安心に繋げて参りたいと考えています。
 最後に、地域全体の再生・振興についてであります。これまでも、水俣・芦北地域振興計画の着実な実施をはじめ、地元の皆様方とともに、様々な取組みを進めて参りました。
本年10月には、「水銀に関する水俣条約外交会議」、並びに「全国豊かな海づくり大会」という、2つの大きな大会が開催されます。
 私は、これらの機会を通じて、国や地元の方々と水俣病の歴史や教訓、そして環境都市としての歩みを進める水俣の姿を、国内外にお伝えするとともに、地域の再生についても引き続き進めて参ります。
 申すまでもなく、「公害の原点」である水俣病は、戦後の復興や経済の成長を図り、国民生活の向上を目指した国の政策を推し進める中で発生したものです。
 透き通る青い海や小川の清流、生き生きとした緑、そしてその中で育まれていた人々の幸せな暮らしが、水銀で侵されました。水俣病がなければ、患者の方々はもとより、地域の皆様の幸せはずっと続いていたであろうと思います。先日、水俣を訪問した際に、「決してこのような悲劇を繰り返してはいけない。」ということを改めて実感いたしました。
 このことを世界中にお伝えするのが、「水銀に関する水俣条約外交会議」の役割ではないかと思います。
 県としましては、改めて水俣病の被害拡大についての責任の重さをしっかりと胸に刻み、様々な課題に対して、今後も全力を挙げて取り組む覚悟です。
 結びにあたり、改めて水俣病犠牲者の方々の御冥福を心からお祈り申し上げ、私の「祈りの言葉」と致します。

平成25年5月1日
                                  熊本県知事 蒲島 郁夫



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チッソ株式会社代表 「祈りの言葉」

 
 本日、ここに、水俣病犠牲者慰霊式が執り行われるに当たり、謹んでお亡くなりになられました方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様方に対しまして心より哀悼の意を表します。
 当社は、この水俣の地で創業以来105年に亙り、水俣市及び周辺市町村の皆様に支えられ地域とともに歩んでまいりました。
 しかしながらこの間に、当社の工場廃水に起因して水俣病を惹き起こし、多くの方々が犠牲になられ、住民の皆様にも多大なご迷惑をおかけしましたことは、まことに痛恨の極みであり、ここに衷心よりお詫び申し上げます。
 当社は、これ迄患者の皆様に対する補償責任の完遂を経営の至上命題に掲げ必死の努力を重ねてまいりました。
 平成21年には「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」が制定され、環境省、熊本県、鹿児島県を始めとする多くの関係者の方々の多大なご尽力により、救済を進めていただいております。
 また、この特別措置法により発足した当社の事業子会社であるJNC株式会社は3年目を迎えました。厳しい事業環境ではありますが、「優れた技術で社会の進歩に貢献する先端化学企業」として世の中の高い評価を得られるべく努力しております。
 水俣製造所は当社にとって発祥の地であるばかりでなく、所有する13ヶ所の水力発電所から得られる電力は、クリーンエネルギーとして貴重な財産となっております。魅力ある製品を更に揃えて収益基盤を強化し雇用の確保をはじめ地域の発展に貢献してまいります。
また、患者の皆様が安心して暮らしていけますよう、関係自治体が検討される必要な施策にも協力してまいる所存であります。
 当社がこれまで関係先から受けたご支援は、「補償の完遂と地域経済・社会の安定に資する」という責務を果たすためのものと認識しております。
 犠牲となられました方々の鎮魂のため、また、国、県及び地域の皆様方からいただいておりますご支援にお応えするため、なお一層の経営努力を重ねてまいりますことをここにお誓いして、祈りの言葉といたします。

平成25年5月1日
                            チッソ株式会社
                             代表取締役社長 森田 美智男



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