施設案内

開館時間
午前9時~午後5時まで
入館無料、駐車場無料

休館日
月曜日
(月曜が祝日の場合はその翌日)
年末年始(12/29~1/3)
駐車場
乗用車270台
大型バス15台
(案内はこちら)

※障がい者・高齢者用の駐車場については、事前にご相談ください。

所在地
〒867-0055
熊本県水俣市明神町53番地

TEL
0966-62-2621
FAX
0966-62-2271


※資料館HPに掲載されている写真等について、無断で刊行物、WEB上に掲載することを固くご遠慮申し上げます。


水俣病犠牲者慰霊式

平成20年度水俣病犠牲者慰霊式 式辞・祈りの言葉
平成20年度水俣病犠牲者慰霊式


水俣市長式辞
 水俣病の発生によって犠牲となり、尊い生命を奪われた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。

 公式確認から五十二年目を迎えました本日の水俣病犠牲者慰霊式に、ご遺族や患者の皆様、鴨下環境大臣、蒲島熊本県知事をはじめ、ご来賓の皆様方、それに多くの市民のご臨席を賜り、お祈りを捧げていただきますことに、厚く御礼を申し上げます。

 公式確認から半世紀を超えてなお、健康に不安を訴え、早期の救済を求めておられる数多くの人々の存在があります。このことを目の当たりにする時、地域全体が完全に水俣病を克服していないことを、今更ながら再認識するとともに、早期全面解決に向けて果たしてどのように力を尽くしてきたのかを自身に問われているような、内心忸怩たるものがあります。

 被害を訴えておられる多くの方々の痛みを受けとめ、地元市長として、今しなければならないことは何か、今一度自らに問い直し、何としても一日も早い心の平安が訪れる日へ向かって懸命の努力をすることは、私に課せられた使命であると思っております。

 長いこと大変な苦労をされた患者さんの命が、お一人お二人と失われていく悲しい現実もあります。残されたご家族の無念なお気持と深い悲しみを拝察いたします時、激しく心が痛みます。

 五十余年の歳月は、否応なく水俣病被害者を高齢化させ、同時に、半世紀を胎児性患者とともに歩んでこられた親・兄弟の高齢化という深刻な問題をももたらしています。「私が死んだらこの子らは…」「かあちゃんが死ぬときは、うちも連れていって」という、切実な訴えに接する時、被害者の将来の生活を見据えた抜本的な対策が必要であると痛感し、何とか地域全体で支援していく仕組みが構築できないか鋭意検討しているところです。

 これまで国や熊本県のご支援により、胎児性水俣病患者及びご家族の方々の願いでありました地域に開かれた生活支援施設の建設や、環境福祉先進モデル事業により福祉の増進が図られてまいりましたことは、大変ありがたいことであります。

 しかしながら、一方ではなお、未認定患者の救済問題や患者の高齢化による症状の重篤化なども懸念され、一日も早い水俣病問題の全面解決と地域再生への更なる支援を切に願うものであります。

 これまで私たちは「水俣病の犠牲を無駄にしない」ことを誓い、住民協働で「環境モデル都市づくり」を進めてまいりました。水俣方式とも言える「環境に特化したまちづくり」は全国的にも高く評価され、子どもたちにとっても大きな誇りと自信へとつながっています。他より一歩進んだ環境行動を誇らしげに語り、また主体的に関わろうとする子どもたちの姿に、私は明るくたくましい水俣の未来を重ね合わせております。

 水俣病により、半世紀を経てなお癒えない痛みと未曾有の被害を被り、必死に再生の道を探りつつ努力を積み重ねて参りました。水俣のまちづくりは、言うなれば命の尊厳を大切にするまちづくりでもあります。今後も、小さくとも輝く“ほっ”と安心できるぬくもりのあるまちを市民が心をひとつにして懸命に目指して参ります。 

 そんな水俣のまちにいま、水俣の人々の暮らし・生命の根源である川の上流に産業廃棄物最終処分場が計画されております。“何故、この水俣の地につくらなければならないのか”どうしてもわからないのです。

 常に生命の尊さを問い続けてきた市民には、生命の源に計画されようとしている産業廃棄物最終処分場計画は、次代を担う子どもたちに安心、安全で温もりのある水俣を引き継いでいくわれわれの使命にそむくものであり、許しがたいことであります。この反対運動が水俣のエゴではないことをご理解いただきたいとあえて申し添えさせていただきました。

 おわりに、ご遺族並びに患者の皆様の深い心の痛みが少しでも癒されるよう誠心誠意努めることをお約束し、すべての水俣病犠牲者のご冥福を心からお祈り申し上げ式辞といたします。


平成二十年五月一日
水俣市長 宮 本  勝 彬

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水俣病患者・遺族代表「水俣の祈り」
水俣病犠牲者慰霊式で患者・遺族を代表して、祈りの誠を捧げる栄を頂き、感謝します。

 プープープー、貝の音が鳴り響き、漁村の一日の幕が切って落されます。手にかごを下げた網子が三三五五に集まって来ると、「はま」は大変にぎやかになります。決められた舟に分乗して、いわし漁の船団が、五丁艪・六丁艪を漕ぐ掛け声も勇ましく、出漁して行きます。やがて、銀鱗輝くピチピチした いわしが陸揚げされると、にわかに陸が活気づきます。ザコ製造の始まりです。

 実は、私、ザコ製造納屋の三代目として、大正十四年に生を受けました。当然の事ながら、幼少のころよりザコにまみれて育ちました。

 その後、兵役に服した後、終戦に伴い、復員してみますと、元気だった父が原因不明の病で亡くなっていました。私は、悲しむ暇もなく、夢と希望を持つように努め、家業を継ぐ事にしました。作業は大変忙しく、腹が減ったら立ったままで、「常々かいもに、いわしのしや」と言われた様に、かいもに、釜揚げのいわしで、腹ごしらえをしました。夜遅くに作業が終わると皆、いわしのぶえんで茶漬けを食べ、 「アバチョヂョノイ」、「ソンナラダンダン」と挨拶して、人夫さんたちは帰って行きました。

 しかし、事業は永くは続きませんでした。昭和二十五、六年になると、あんなに海の底から湧いていた いわしも姿を見せなくなり、沿岸には半死半生の魚が打ち上げられ、犬猫は狂死し、カラスも空から姿を消しました。何かしら、天変地異が起こる兆しではないかと、大変心配致しました。やがて、漁村の住人にも影響が出始め、患者は、奇病、伝染病と誤解を受け、恐れられ、忌み嫌われながら、もがき苦しみ、狂死する人も多くなりました。あんなに豊かで恵みの海が、死の海、いや凶器を持った死の海に変貌してしまったのです。  

 私も事業を断念せざるを得ませんでした。やがて、胎児性の水俣病患者も出始めました。海を追われた多くの漁民は、慣れない陸の仕事に大変苦労しました。しかし、安賃闘争が終わる頃には、陸の仕事も少なくなり、後ろ髪を引かれる思いで、家族に別れを告げ、出稼ぎに行く者が多くなりました。私もその中の一人でした。昭和四十八年当時、私は、住友建設の下請けで、玄海町と鎮西町の岬をつなぐ橋梁工事に従事していました。その頃、買い物帰りに、急に足がけいれんして動けなくなりました。そのことを知った、水俣地区から雇われていた 船長さんが、「わいも水俣病じゃが、申請せんか、おっどま、とっくにすませとっど。」と言いました。

 早速、家に帰って家族に相談致しました。 高校生の娘、中学生・小学生の 二人の息子がおりましたが、「伝染病でもなければ、奇病でもないんでしょう。私たちのことは心配しないで、自分の体のことを考えたら。」と言ってくれました。私は、子どもの結婚の事、将来の事を考えましたが、勇気を出して、申請に踏み切りました。疫学調査、内科、眼科、耳鼻咽喉科の検診を受け、くしくも三十五年前の本日、すなわち昭和四十八年 五月一日に、鹿児島県知事より、認定通知を受けました。その時、私は複雑な気持ちで一杯でした。多量の魚やザコを地域に提供していた自分は、ある意味、加害者でもあったと思っていたのですが、被害者にもなってしまったのです。

 水俣病には、肥後・薩摩の国境もなければ、水俣市と出水市との境もなく、広く地域全体を巻き込み、大規模な公害となりました。

 このような中、健康を侵され、偏見・差別・中傷を受け、苦しみ、水俣病の犠牲となられました、多くの御霊よ、皆さんの犠牲は決して無駄ではありません。これから、世界中で起こる環境問題への対策の中で、永遠に生かされていくことでありましょう。

 残された私たちは、命ある限り、協力して、地域の再生と振興に一層、力を尽くす事で、二度とこのような悲劇を繰り返さない事を固くお誓い申し上げ、祈りの言葉と致します。犠牲となられた皆様、安らかにお眠りください。


平成二十年五月一日
水俣病患者・遺族代表 井島政治


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水俣市立深川小学校 児童代表「祈りの言葉」
 この親水護岸で肌に感じる風。
 その風が運んでくれる潮の香り。
 そして、目の前に広がる水俣の海。
 一年の中で色鮮やかに変化し続け、四季の訪れを教えてくれる、棚田が広がる山々。
 水俣の山にわきだし、水俣の海に注ぐ、水俣川。
 こんなに自然が豊かな水俣が、私たちは大好きです。
 この豊かな自然を世界中の人に自慢したいです。

 でも、この美しい水俣にとても悲しいことが起こりました。水俣病です。人々の健康や命までもうばい、この水俣の美しい自然をこわしただけでなく、お互いのつながりや温かい心もこわし、差別を生みました。水俣病学習を通して、患者さんやその家族の方々が受けてきた差別のひどさに驚き、悲しくなりました。人間にあんなにもひどいことができるなんて思いませんでした。相手の身になって考えることが、どんなに大切なことか分かりました。 

 わたしたちは、ほっとはうすに通っていらっしゃる患者さんと、毎年、交流をします。今年は、永本さんや長井さんたちが来て下さいました。患者さんは、今もいろんな障害が残っておられますが、小さいときのことや今の様子、将来の希望などを一生懸命伝えてくださいます。とても強く、優しく、前向きに生きていらっしゃいます。わたしたちもその生き方を見習わなければいけないといつも思います。でも、患者さんたちのあの強さと優しさは、口では言い表せないほどの苦しさを経験された結果だと思うと、悲しくなります。だから、二度と、水俣病のようなことをおこしてはいけないと、心から思います。

 ほっとはうすの方との交流の最後に、『海』という歌を歌います。その歌は、「海はわたしたちの大切な宝物」という言葉で終わります。その宝物を汚したのは人間です。だから、私たちの手できれいな海を取り戻し、宝の海であり続けるように守っていかなければいけません。

 今、わたしたちの学校では、一九九九年から水俣で始まった『学校版環境ISO』に取り組んでいます。紙ごみをきちんと分別することで燃やすごみを減らしたり、レインタンクを使うなど、節水に努めたりしています。家庭版環境ISOにも取り組み、持っているものは買わないようにしたり、マイバッグを持って買い物に行ったりしています。水俣市が環境に優しい街作りに取り組むきっかけになったのは、水俣病です。水俣病は、工場から出された廃棄物が海を汚し、食べ物が汚染された結果発生しました。だから、「ゴミを分別して減らすこと」、「海を汚さないこと」は水俣市民の使命と思います。

 残念ながら、今でも水俣や水俣病のことを差別する人は後を絶ちません。水俣病は、つらい歴史として、忘れてはいけないことですが、それを教訓として立ち直ろうとしている今の水俣の姿を、是非知らせていきたいです。そして、どこに行っても、誰にでも「水俣出身です。」と胸を張って言いたいです。

 私たちは、ここに、「水俣病が私たちに教えてくれたことを決して忘れず、水俣市民全員で力を合わせ、私たちの住む水俣を、温かい心と豊かな自然あふれる素晴らしい街にしていくこと」を誓います。


平成二十年五月一日
水俣市立深川小学校 児童代表 宮崎 直人
前田みのり
( 注)宮崎直人氏の崎は"立さき"です)


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環境大臣「祈りの言葉」
 水俣病犠牲者慰霊式に臨み、水俣病によって、かけがえのない命を失われた方々に対し、心から哀悼の意を表します。
 本日、この地に立ち、この水俣の美しい海を見るに及んで、このすばらしい海を汚し、深刻な健康被害をもたらし、そして、差別・偏見・不和など地域全体の絆を破壊してしまったことについて、思いを深く感ぜずにはいられません。
 多年にわたり大変な苦しみの中でお亡くなりになられた方々、ご遺族の方々、今なお被害に苦しまれている方々、そして、地域に生じた軋轢に苦しまれた方々に対し、誠に申し訳ないという気持ちで一杯であります。
 ここに、政府を代表して、水俣病の拡大を防げなかったことを、改めて心よりお詫び申し上げます。
 水俣病によって失われたもの、大きな犠牲を払った痛み、人間存在の重さを胸に刻んで、二度とこのような悲惨なことを繰り返さないようにしていくことが大切であります。
 地方公共団体、事業者、国民の皆様とともに真剣に取り組み、公害のない持続可能な社会を実現していくことが、政府としての使命であります。
 公式確認から五十二年、言い尽くせない長い歴史と多くのできごとが積み重ねられましたが、水俣病問題は、現在も大きな課題であります。
 特に、様々な経緯を経て、今日、なお救済を求めておられる方々が多くいらっしゃいます。こうした現状を十分に踏まえ、懸命に取り組んでいく必要があると確認しております。
 すべての被害者の方々が地域社会の中で安心して暮らしていけることが何よりも大切であり、地元自治体と緊密な連携を図りつつ、全力で取り組んでまいる決意であります。
 最後に、改めて、水俣病の犠牲となりお亡くなりになられた方々の御冥福をお祈りし、私の「祈りの言葉」とさせていただきます。

平成二十年五月一日
環境大臣 鴨下一郎


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県知事「祈りの言葉」
 水俣病犠牲者慰霊式が執り行われるにあたり、尊い命を失われた方々の御霊を前に、全ての熊本県民とともに謹んで哀悼の意を表します。

 私は、県知事選に正式に立候補することを決意しました後、県民の方々に私の立候補への思いをお伝えする最初の場所として、この埋立地を選びました。それは、この地で起きた自然環境の破壊と水俣病被害の凄まじさを、直接感じとりたいと考えたためでありました。更には、県知事就任後、真っ先にやらなければならないことは水俣病問題を一日も早く解決することである、という私の強い決意を示すためでもありました。
 そして今、県知事の立場で、水俣病原点の地、聖地とも言えるこの埋立地に立ちますと、犠牲となりこの地に眠るもの全ての声が、静かに、そして深く私の耳に響いてくるようです。
 ここに、水俣病の被害拡大についての県の責任の重さを改めて心に刻みますとともに、長きにわたり大きな苦痛を強いることになってしまいました被害者や御家族の皆様方に対しまして、心からお詫び申し上げます。

 もともと、この水俣地域は、まことに風光明媚で、自然の実りに恵まれた心安らぐ土地でありました。ところが、国の戦後復興、高度経済成長政策が推し進められ、日本国民の生活が向上していくのと、まさに軌を一にして、この地では多くの方々のかけがえのない人生が奪われ、大切に守ってきた豊かな自然が傷つけられていったのです。
 そして、健康を奪われ、家族を奪われ、絆を断たれた方々は、言葉にできない心と体の苦しみを抱えながら、「元の健康な体に戻せ。」、「一人の人間として謝れ。」と悲痛な訴えを続けてこられました。こうした魂の奥深くからの叫びに対して、私達は、出来ること、為すべきことを、十分に行ってきたと、胸を張って言えるでしょうか。

 中でも、胎児性や小児性の水俣病患者の方々の艱難辛苦は、想像に余りあるものがあります。これらの方々の御両親や御家族の多くも患者であり、それぞれ、言い表せない御苦労があったかと思います。県民の生命、健康、財産を守ることが最大の使命である県知事としてだけでなく、一人の人間として、誠に無念であり、今更ながらに、その被害に対する責任の大きさ、重さを痛感しております。

 そして今、私の前には、新たな救済を求める声を上げておられる多くの方々の存在があります。地域の方々の願いは、一日も早い救済と解決であります。「水俣病は公害の原点」と言われますように、水俣病問題は一地域の一公害問題ではない、私も含めて、生活の豊かさという恩恵を受けた国民一人一人が、この問題に対する認識を共有する必要があると思っております。
 本日の慰霊式には、多くの被害者の方々のほか、鴨下環境大臣、与党プロジェクトチームの皆様、鹿児島県及び新潟県の方々、そしてチッソ株式会社の後藤会長等、この問題の関係者が一同に参列されております。これだけ長い年月を経ても、今なお、多くの被害者の方々が、一日も早い救済を求め続けておられ、お一人、また、お一人と亡くなっていかれる現実に対しまして、今こそ関係者すべてが、それぞれの立場で全力で取り組んでいかなければならないと改めて思います。
 私は、地元県知事として、早期救済、早期解決を実現する為に、関係者の皆様方の御協力を得ながら、全力を尽くして参ることをここにお誓い申し上げます。

 県におきましては、これまで、地域の皆様とともに、「もやい直し」や地域の再生、振興にも取り組んで参りました。これからも多くの方々の声をお聞かせ頂きながら、この地域が取り組まれております「水俣病を教訓としてどこよりも環境を大切にする都市づくり」についても、引き続きできる限りの支援を行って参ります。
 水俣病問題に正面から向き合い、人と人、人と自然が共生する都市づくりを進めていくことは、水俣病で亡くなられた方々の御霊に報いるものであると信じます。またそのことは、未来の子どもたちにすばらしい環境を残すことにつながります。一人一人が何ができるかを真剣に考え、確実に行動することによって、世界の模範となるような「環境都市」を必ず実現できるものと信じております。

 終わりに、改めて水俣病の犠牲となり亡くなられた方々の御冥福を心からお祈り申し上げますとともに、全ての皆様と力を合わせ、被害者の方々の早期救済はもとより、誰もが、生き生きと、環境と共生しながら暮らすことのできる社会の実現に向けて、全力をあげて取り組むことを固くお誓いし、「祈りの言葉」といたします。

平成二十年五月一日
熊本県知事 蒲島 郁夫


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チッソ株式会社代表「祈りの言葉」
 本日、ここに、水俣病犠牲者慰霊式が執り行われるに当たり、御霊の安らかなることを謹んでお祈り申し上げます。

 当社は、明治四一年化学技術によって世の必要とする製品を生み出す事業を志し、ここ水俣の地を拠点と定めました。以来、水俣市及び周辺市町村の皆様方に支えられ、皆様方とともに歩んで、本年丁度百周年を迎えております。

 しかしながら、この途中において、当社の工場廃水に起因して、水俣病を発生させ、多くの方々が犠牲になられましたことは、まことに痛恨の極みであり、改めて衷心よりお詫び申し上げますとともに、謹んでお亡くなりになりました方々のご冥福をお祈り申し上げます。

 同時にまた、この地域全体にも多大なご迷惑をおかけしていることについても深くお詫び申し上げます。

 当社は、これ迄患者補償を経営の至上命題と掲げ、その完遂に必死の努力を重ねて参りましたが、今度共この努力を続けて参ります。また、この失敗を深く心に刻み、常に環境に配慮するとともに、水俣市民全体で推し進める「環境モデル都市」造りにも貢献できるよう努める所存でございます。

 そして、社会に進歩を齎す有用な製品を提供することによって、事業を拡充させ、この水俣を中心とした地域の発展にも貢献して参ります。

 このことが、犠牲となられました方々の鎮魂のため、また国、県及び地元の皆様方からいただいておりますご支援にお応えするための唯一の道であると考えております。

 このことをお誓いして、甚だ言葉足らずではありますが、祈りの言葉と致します。


平成二十年五月一日
チッソ株式会社 代表取締役会長 後藤 舜吉


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