施設案内

開館時間
午前9時~午後5時まで
入館無料、駐車場無料

休館日
月曜日
(月曜が祝日の場合はその翌日)
年末年始(12/29~1/3)
駐車場
乗用車270台
大型バス15台
(案内はこちら)

※障がい者・高齢者用の駐車場については、事前にご相談ください。

所在地
〒867-0055
熊本県水俣市明神町53番地

TEL
0966-62-2621
FAX
0966-62-2271


※資料館HPに掲載されている写真等について、無断で刊行物、WEB上に掲載することを固くご遠慮申し上げます。


水俣病犠牲者慰霊式

平成18年度水俣病犠牲者慰霊式 式辞・祈りの言葉
平成18年度水俣病犠牲者慰霊式


水俣市長式辞
不知火の海に在るすべての御霊よ、二度とこの悲劇を繰り返しません。安らかにお眠りください。
公式確認から五十年を迎えた節目の慰霊式として、不知火海を望むエコパーク水俣親水緑地に「水俣病慰霊の碑」を建立して開催する初めての式典に、ご遺族や被害者の皆様、小池環境大臣、江田環境副大臣、潮谷熊本県知事、伊藤鹿児島県知事、泉田新潟県知事をはじめ、国会議員、県議会議員、近隣市町の方々、それに多くの市民のご臨席を賜り、お祈りを捧げていただきますことに、厚く御礼を申し上げます。
また、先日は国会及び熊本県議会で、水俣病の再発防止を誓う決議をしていただき、さらに小泉首相の談話も出していただきましたことに対しても厚く御礼申し上げます。
私は、市長に就任いたしまして、水俣病がもたらした問題の大きさと地域へ与えた傷跡の深さを改めて痛感いたしております。被害者の皆様は言うまでもなく、市民すべてが、この五十年間、水俣病で苦しんでまいりました。
市は、その時々において、成しえる手立てを最大限に講じてまいりましたとは言うものの、今日に至ってなお、多くの問題を残している現状を顧みますとき、果たして十分とは言えなかったのではないか。今、行政の長として、被害を受けられた全ての方々に、心から謝罪をし、解決に向けた新たな誓いを申し上げなければなりません。
水俣病の確認当初、原因が分からず、伝染病ではないかと噂され、被害者に対しての偏見や差別が生じました。また、風土病のようにも取り扱われました。その後、水俣病の責任追及や被害者補償の裁判が次々とはじまりますが、市民生活を支える加害企業の存立を心配し、被害者は孤立してしまいました。地域の中に見えない壁ができてしまい、問題を解決するすべもなく、地域社会は崩壊への一途を辿りました。
混迷する地域に一筋の明るい光が射すきっかけとなりましたのが、平成二年の水俣湾埋立工事の完了でございます。これを契機に「環境創造みなまた推進事業」を熊本県のご協力ではじめました。私たちは、水俣病と正面から向かい合い、被害者の皆様との対話に努め、市民には水俣病への正しい理解を求めました。ようやく、平成四年に、「環境モデル都市づくり宣言」を行い、水俣病の犠牲を無駄にしない環境のまちづくりを誓うとともに、互いの立場の違いが分かり合えるもやい直しを進め、公式確認から四十年を迎える平成八年には、被害者の皆様が苦渋の選択で政府解決策を受け入れてくださいました。そして、地域社会は再生に向けて前進をはじめ、十年後の今日の日には、犠牲になられた方々に対しまして、全面解決に向けての良き報告ができるものと思っておりました。
しかし、現在、残された問題が浮き彫りになり、新たな認定申請や裁判がはじまっております。加えて、被害者の高齢化に伴う福祉や生きがいなど、補償金だけでは解決できない多面的な救済も大きな課題となっております。このような現状を水俣の将来に期待をしながら亡くなられた犠牲者の方々に、どのようにご説明すればよいのか、言葉を失ってしまいます。
私たちは、犠牲になられた方々の御霊が少しでも安らかであるよう、一刻も早く被害者の立場に立った救済を進めなければなりません。水俣病から学び、安心安全に暮らせる地域をつくらなければなりません。被害者の声が届かず、水俣病の解決から遠ざかりつつありますが、混迷していた以前の水俣とは違います。私たちは、これまで「もやい直し」を懸命に進めてまいりました。解決に向けての話し合いのテーブルは、用意できると信じております。そして、お互いが人として、過去を振り返り反省し、強い決意でテーブルにつかなければならないと思います。ご臨席賜りました皆様の絶大なお力を頂戴し、地元市長として、堅忍不抜の精神で取り組んでまいります。
また、水俣は、他の町を通ることなく水俣川と湯出川という一つの水系に育まれて成り立っています。そして、昔から人々のくらしは、水の恵みに育まれた豊かな自然のなかに、しかもその自然の許容の範囲の中に受け継がれてきました。 しかし、水俣病は、私たち人間の無知、あるいは自然に対する畏敬の念を忘れたことにより引き起こされ、自然の許容範囲、海の環境の許す範囲を越えてしまい、環境破壊につながりました。
いま、水俣では、水俣の人々のくらし・生命の根源である湯出川の上流に巨大な産業廃棄物の最終処分場建設が、計画されております。
産業公害事件を身をもって経験した水俣という特別な場所に、水俣病の被害を受けた人々の苦しみや、歴史を省みない行為がなされようとしているのです。
みどり豊かな自然環境を破壊して建設される最終処分場は、様々な危険性を内包しており、水俣の豊かな自然に異変をもたらさないという保証はどこにもありません。
水俣病と言う未曾有の環境破壊を経験した、水俣市の行政の長として、私はどうしてもこの問題を看過することができません。水俣病の被害を受けられた方々への思いに応えるためにも、この最終処分場計画を阻止し、何事にも環境を最優先するまちづくり、小さくとも輝くほっと安心できる温もりのあるまちづくりを進めたい、との思いを新たにしているところです。
 今年は、被害者の皆様をはじめ、チッソ、行政、関係団体で、水俣病公式確認五十年事業を実施しておりますが、一過性の事業で終わらせていけないことは、十分承知いたしております。水俣病を見つめ直し、地域の再生と融和につなげていかなければなりません。水俣病の悲劇を克服し、教訓としていくことは、地球規模で進行している環境問題の解決にも、とても重要であります。既に、私たち市民は、一度引き起こされた公害によって、五十年もの間、完全に問題が解決できなかったことを知っています。人類の先頭に立ち、水俣病のような悲惨な公害病が二度と発生しないよう警鐘を鳴らし続けなければなりません。
最後に、残されたご遺族と被害者の皆様の深い心の傷が癒(いや)されるよう全力を尽くすことをお約束します。
不知火の海に在るすべての御霊よ、二度とこの悲劇を繰り返しません。安らかにお眠りください


平成十八年五月一日
水俣市長 宮本 勝彬


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水俣病患者遺族代表「祈りの言葉」
 公式確認から50年を迎えるにあたり、犠牲になられた方々に対しまして、患者遺族を代表し、心から祈りの言葉を申し上げます。
  私たちは、ここ水俣で平穏な生活をおくっていたのに、チッソの廃液によって水俣病患者になったことは言うまでもありません。患者宅では、働き手を失い、収入の道が途絶え、偏見差別に悩まされ、精神的にも肉体的にも言葉では言い表せない苦境の毎日でありました。
 私は、水俣病で両親を亡くしました。父は熊大で狂い死にし、原因が分かればとのことで解剖され、母は4年間寝たきりのまま息を引き取りました。私にとっては、まだまだ親が愛しい時期でしたので、本当につろうございました。
 私は、この地獄のような実体験を多くの人々に伝え、水俣病のような公害を二度と繰り返して欲しくないと思い、水俣病資料館で語り部を務めています。
 昭和34年、生活が日々困窮する中、責任と補償を求めてチッソ正門前に座り込みをせざるをえませんでした。当時の市民の視線はそれはそれは冷たいもので、 「なんか!おまえどんが、傷んだ魚ば食べたくせん、チッソは悪なか!」と原因であるチッソよりも、私たちが悪いように扱われた気がします。それが延々と続き、政府が公害病と認定してくれるには、長い月日がかかりました。
 その間、患者家族は、人目につかないよう納戸や納屋に隠れて生活し、症状がひどくなった者は精神病院に運ばれました。特に適齢期の子を持つ親は、病気をひた隠しにしていました。  
 昭和47年、先生方の進めもあり、スウェーデンで開催された第1回国連人間環境会議に水俣病患者として出席し、世界の人々に全身で公害の悲惨さを訴えました。
 半世紀を迎えた今、患者は、病気の悪化と高齢化に悩まされ、次々と命を絶っています。
 母親の胎内で水俣病になり、生まれてきた胎児性患者の多くも50歳を迎えます。彼らは、恋愛も結婚することもできず、必死にこれまで生きてきました。ここに参列されている方もいらっしゃいますが、病床に伏し、参列できない方も他に何人もいらっしゃいます。大変むごいことです。かわいそうでなりません。
 私も、病状が毎日ひどくなっていくのが、はっきりと分かり心配でなりません。何をするのにも手伝ってもらい、やっとの思いで生きています。
 一時でもいいので、公害の苦しみと重みから抜け出したいのですが、かなわぬ思いです。
 けれども、唯一の救いがあります。昔と違い、市民からは温かく励まされるようになりました。以前のような平穏な暮らしが戻って来ました。その中で、未だに問題が解決できないことをとても残念に思います。私は、ここでまた、みんなが再スタートをしなければならないと思っています。今の子ども達が聞くだけでなく、各々の暮らしの中で自然や生命を大切にし、人の痛みの分かる人間に成長して世の中を築いてくれたとき、犠牲になられた方々の気持ちが報われると思います。

平成十八年五月一日
浜元 二徳


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環境大臣 「祈りの言葉」
 公害の原点ともいうべき水俣病の公式確認から50年を迎えるに当たり、水俣病によって、かけがえのない命を失われた犠牲者の皆様に、心から哀悼の意を表します。
 50年前、不知火海という魚湧く美しい海に恵まれたこの地に生を授かり、暮らしていた皆様には、幸せな人生が約束されていたはずでした。その幸せを水俣病によって奪われ、健康被害に苦しみながら、大切なご家族を残してお亡くなりになられた皆様が、どれほど無念であったかを思うとき、私ども行政に携わる人間として、言葉に詰まりただ頭を垂れるばかりです。
ここに政府を代表して、水俣病の拡大を防げなかったことを、改めて心よりお詫び申し上げます。

 「総理大臣の談話」で述べられておりますが、水俣病については、我が国の高度経済成長が始まった時代に、公害を発生させた企業に適切な対応をなすことができずに、その被害を拡大させてしまいました。そうした水俣病の犠牲の上に今日の社会の繁栄と暮らしの豊かさが築かれていったとも言えます。そして、この水俣病問題を契機に、環境問題への本格的な対応が開始され、私たちはより安心して暮らすことができるようになってきています。私たち一人ひとりは、自らが暮らす社会のこのような成り立ちに思いを致し、水俣病を学び、犠牲者の声に耳を傾ける必要があります。水俣病は公害のみならず環境問題の原点であり、現在の社会や行政のあり方に対し重い問いかけを発し続けているものと考えております。
 私は、水俣病のような悲劇を二度と繰り返さないよう、その経験の重さを胸に刻み、より複雑化・多様化する環境問題に対して、国、地方公共団体、事業者、そして国民のすべてが真剣に取り組み、恵み豊かな環境の中で幸せに暮らせる持続可能な社会を実現するため、政府を挙げて取り組んでいくことを誓います。そして、水俣病の教訓を世界に発信していきます。

 環境大臣としてこの地を訪れるのも今回で3度目となりましたが、水俣病の悲劇を伝える語り部の皆様をはじめ水俣病の被害者の方々に接するとき、苦しみを乗り越えて人生に取り組む方々の力強さや温かさを感じます。また、資源ゴミの分別、リサイクルなどに熱心に取り組んでいる人々や、環境や健康を大切に考えて食品づくりに取り組む人々のことなどを話にお聞きして、この地が誇りを持って暮らしていけるような場所になるように努力をされ、もやいの絆で地域の一人ひとりが結ばれつつあることに感動を覚えます。

 今年の新年は、水俣病公式確認50年事業実行委員会のご尽力により、「 記憶、祈り、そして未来へ」との思いを込めた、不知火の海に響く恋龍太鼓の荘厳な音とともに、幕を開けました。
 長い歴史と経緯を経てなお、水俣病問題は現在進行形ではありますが、このように公式確認から50年という節目の年を迎えるに当たり、平成7年の政治解決や一昨年の最高裁判決も踏まえ、すべての被害者の方々が地域社会の中で安心して暮らしていけるよう、地元自治体と協力して、また地域の皆様との対話を大切にしながら、今後とも、全力で取り組んでいくことを誓います。

 最後に、改めて、水俣病の犠牲となり亡くなられた方々の御冥福をお祈りし、私の「祈りの言葉」とさせていただきます。


平成十八年五月一日
環境大臣 小池百合子


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県知事 「祈りの言葉」
 本日ここに、水俣病犠牲者慰霊式が執り行われるにあたり、私は、熊本県を代表して「祈りの言葉」を申し上げなければなりません。しかし、正直に申し上げて、お詫びしてもお詫びしきれない気持ちで、ここに立っております。
 今、目の前に広がる水俣湾とそこに浮かぶ恋路島、そして不知火の広い海と空は、あたかも五十年前と変わりないように見えます。しかしながら、沈黙の風景に見えるこの埋立地は、多くの生類の生命、健康、そして環境等に世界でも類を見ない被害を及ぼした、公害の原点とされる水俣病発生の舞台となった事実を物語る場所であります。

 二00四年十月十五日、水俣病関西訴訟最高裁判決で、熊本県の行政責任を問われました。この水俣病公式確認から五十年の歳月、数多くの尊い生命を失われた皆様、また心身共に傷つき、重荷を担われた被害者の皆様、そしてその御家族や水俣病発生の地として、偏見と差別、非難と中傷、反発と抗争にさらされながら、時を刻んでおいでになった方々、更には、多くの認定申請中の方々等を前に、私は、絶え間なく責任の重さを覚えながらも、具体的な目に見える形の施策の実現がなかなか困難である現実に、苦悩と申し訳なさで満ち満ちております。

 私は、先日、東京で写真家、桑原史成氏の「水俣の肖像-公式確認から半世紀の節目」展にうかがいました。劇症の患者の方の手や指は、通常では考えられない程に反り返り、足は重なり、痙攣のすさまじさが写し出されているかと思うと、「宝子」として大事に大事に家族愛に守られ、育てられ、二十二年の短い生命を終えられた我子を介助する、お母様の優しい手とまなざしが写真にこぼれています。また、胎児性水俣病の少女が、美しい晴着で身を包んでいる写真もありました。ふっと一つの句が思い出されました。

 「年老いし、両親の生命は惜しまねど、青春なき娘を哀れとぞ思う」

 この句は、どなたの句であったか存じませんが、この写真同様、水俣病の娘を持つ親御さんの気持ちが、哀しいまでに心に響きます。展示された一枚一枚は、水俣病そのものを一瞬に切り取って表現され、言葉が聞こえるはずもないのに、水俣病の根元的な責任を問うているように感じました。水俣病を起こした責任、拡大させた責任、そして救済の責任を問い、耐え難い辛苦の五十年を再起していく・・・。今、行政は勿論、一人一人がなすべき事に心を注ぐ事を、求めております。

 他方、水俣病をめぐって引き起こされた裁判の数の多さと、その歴史の長さは、如何にこの事件が類例のない、衝撃的な内容であるかを示しています。しかし、水俣病被害者の方々は、怒りと憤りやあきらめの中で時を過ごしたのではなく、むしろ時の流れの中で、自分をしっかりと見つめ、人間としての心を失わず、優しさと人間の未来を本気で心配し続けていかれた生き方もあったと聞き及んでおります。

 ある方は、想像を超える呻吟の末、「チッソは自分でもある」、「自分は、被害者であり、加害者でもある」と自己分析し、またある方は、水俣病ゆえに自殺まで決心した日々もあったのに、「水俣病はのさり」、つまり「大いなる存在から与えられた恵みである」と常々口にされ、その方の賢明で優しく、また忍耐強く寛容な魂が、成熟した人間の存在感を示しているように思います。そして、あの写真に見られる家族愛に包まれた少女の存在は、お母様の言葉を借りれば、「胎盤を通して水銀を一身に受け止め、胎児性水俣病としてこの子がマスコミに出る事によって、政府の偉か人や会社の偉か人が、環境に注意するごとなる」と、かつておっしゃっておられます。親子共々、水俣病の試練と苦悩に満ちた日々であったにも関わらず、「この子は『宝子』」と言われております。その姿勢は、子どもの生命がぞんざいに扱われる現代社会にあっても、生命の大切さを教え続けて下さいます。

 改めて申し上げるまでもなく、水俣病は、高度経済成長を推し進める政策により、全国民の生活水準が向上していく中で、発生・拡大していきました。その意味で、この問題は一地域の一公害問題ではなく、国全体の問題、あるいは広く国民的な問題であると、私は常々思っており、全国知事会に於いても、小泉総理大臣にも、直接その事を訴えて参りました。

 先日、国会及び熊本県議会において、水俣病五十年にあたり、水俣病のような悲惨な公害の再発防止を誓う決議がなされました。また、総理談話に於いて、初めて「政府として謝罪」されるとともに、このような悲劇の再発防止等について、「政府を挙げて取り組む」決意が表明されました。今後、水俣病問題についての認識が、広く国民に共有される事になるものと期待をいたしております。また、多くの認定申請や裁判を通して、行政責任や「水俣病とは一体何か」という重い課題が投げかけられている現状に対して、国が正面から向き合い、被害者の早期救済を始め、水俣病問題の解決に向けた更なる主体的な対応をなされる事を強く希望いたします。

 被害者救済が遅れれば遅れる程、地域の安定はもとより、今や、環境モデル都市として全国的な評価を得つつある水俣の取組みにも大きな影響を及ぼすばかりか、地域が再び混乱の時代を迎えてしまうのではないかと、大変、胸を痛めております。

 熊本県としましては、最高裁判決で問われた行政責任を踏まえ、「健康調査」や「環境調査」にも取り組み、被害の実態把握に努めて参りたいと考えております。環境面では、食物連鎖や微量水銀の問題が世界的に論議され、研究されている中で、多くの方々に環境保全や公害の再発防止に努めていただくよう、水俣病の情報や教訓を、具体的にホームページなどを通して、広く内外に伝えて参りたいと考えております。

 水俣病の五十年は、胎児性患者、小児性患者の方々の五十年でもあります。患者の方々と、自らの人生全てをその方々の介護に捧げておられる御家族、御親戚の方々のこの間の御苦労は、いかばかりであったでしょうか。語る言葉がありません。また、高齢となられる中で、大きな不安を抱えておられるのも事実です。こうした事は、チッソ株式会社との補償協定や政治解決でも手が届かない、長年積み残されてきた課題であります。また、今後、熊本県としましては、胎児性患者の皆様方が住み慣れた地域で安心して暮らしていただけるよう、精一杯努めて参る決意であります。

 もとより、地元の行政、企業そして住民の方々が手を携えて、人と人、人と自然が共生する地域づくりを進め、後世に伝えようとされている事柄に対しても、引き続き、支援をして参ります。

 こうした取組みを重ねていく事が、水俣病で亡くなられた方々の御霊に、そして全ての被害者の方々に報いるものであると固く信じております。本日は、同じ時刻に全ての県職員が黙祷を捧げることとしております。

 ここに、改めて水俣病の犠牲となって亡くなられた方々の御冥福を心からお祈り申し上げますとともに、被害者の方々の早期救済、そして人を大切にし、持続可能な社会の実現に向けて、全力を尽くして参る事を固くお誓いし、皆様からの寛大なお心に支えられながら、「祈りの言葉」といたします。


平成十八年五月一日
熊本県知事 潮谷 義子


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チッソ株式会社代表「祈りの言葉」
 本日ここに、水俣病犠牲者慰霊式が執り行われるに当り、御霊の安らかに鎮まりますことを謹んでお祈り申し上げます。

 水俣病公式確認50年の年に当り、新たに建立されましたこの慰霊碑の前に額ずき、改めて命の尊さを思い、ご遺族の皆様方に対しまして心から哀悼の意を表します。

 当社はこの水俣の地で、水俣市及び周辺市町村の皆様方に支えられ、皆様とともに歩み、本年1月12日をもって百周年を迎えました。しかしながらこの間に当社の工場排水に起因して水俣病を発生させ、多くの方が犠牲となられましたことはまことに痛恨の極みであり、ここに改めて衷心よりお詫びを申し上げます。同時にまた、地域社会にも多大なご迷惑をおかけしておりますことについても、深くお詫びを申し上げたいと存じます。

 当社はこの経験を深く心に刻み、このようなご迷惑を再びおかけしないように常に環境に配慮するとともに、社会に貢献する有用な製品を供給することによって事業を発展させ、以って補償責任の完遂と地域社会への貢献という重大な責務を果たしてまいる所存であります。

 そのことが、犠牲となられた方々の鎮魂のため、また、ご迷惑をおかけした地域の皆様方への償いのため、そしてこれまで当社にお寄せ頂いたご支援にお応えする最善の道であると考えております。

 当社はこれらのことを肝に銘じて、なお一層の努力を重ね、企業としての責任を完遂する覚悟であります。

 最後に、重ねて鎮魂の意を申し述べ、祈りの言葉とします。


平成十八年五月一日
チッソ株式会社代表取締役会長 後藤 舜吉


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ほっとはうす一同「祈りの言葉」
 私達は、母の胎内に生命の芽ばえを受けたとたん、チッソ工場より流された有機水銀の毒に犯されました。この世に誕生したそのときから、多くの苦難を背負ってきました。水俣病事件は半世紀が過ぎても、まだ解決できない数々の問題を抱えています。この50年は、私たちの人生の50歳でもあります。

 たくさんの困難の中でも、今日まで生きてこれてよかった、私たちを必要とする場にめぐり合い、人に出会い支えられ、今日ここに立ち祈りの言葉をささげることができることを感謝いたします。

 私たちを案じ、先に逝った父や母、同じ胎児期の被害を受けながら幼い日に、あるいは青春のまっただ中で無念の死を遂げた仲間たちに誠をささげます。

 どうか、天上から見ていて下さい。これからの50年、ささやかな安心を約束できる水俣を創っていきます。この悲劇を希望と未来につながる日まで私達は生き抜きます。

 すべての御霊が安らかであることをお祈りします。


平成十八年五月一日
ほっとはうす一同


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熊本県立水俣工業高等学校 生徒代表「祈りの言葉」
 私たちの愛すべき故郷「水俣」。私は、雄大な自然に囲まれ、四季折々に様々な表情を見せてくれるこの水俣の地で生まれ育ちました。春、新しいスタートの季節。水俣川の桜並木が、学校へ向かう私の背中を優しく押してくれます。夏、躍動の季節。晴れ渡る青空と煌めく不知火の海が、目標に向かって突き進む私に勢いを与えてくれます。秋、豊かな実りに感謝する季節。黄金色の稲穂が揺れる棚田の風景は、幼い頃から見続けてきた大好きな風景です。冬、人の温もりを再確認する季節。寒い冬空の下で部活動に励む私を応援してくれるのは、輝く星空と家族と友人の笑顔です。愛すべき故郷「水俣」。この地で今、私たちは生きています。

 水俣病公式確認から50年。不知火海沿岸の環境を破壊し、多くの人々の生活に深い悲しみと苦痛を与えた、公害病の原点と言われる水俣病の発生から半世紀の時が流れました。私はその時間をずっと生きてきたわけではありませんが、水俣に生まれた一人の人間として、過去の歴史の持つ意味を考えないわけにはいきません。

 私はこれまでに、水俣病に関する学習の機会に多く恵まれました。中でも、小学校で初めて患者さんのお話を聞いたときに受けた衝撃は、心に強く刻み込まれています。奪われた尊い命。心と体に受けた大きな傷。差別と偏見に苦しめられた歴史。それからも、高校生になった現在に至るまでに、幾度となく患者さんの話を聞く機会がありましたが、辛かったはずの過去や心に抱えた様々な思いを、時には笑顔も見せながら、包み隠さず教えてくださる姿が、毎回印象的でした。この他にも、水俣病資料館を訪問したり、患者さんとのふれあいなどを経験しました。そして、水俣の町を心から愛し、人と人との絆を再構築しようとする「もやい直し」に奔走された方々のおかげで、現在の素晴らしい水俣があることを実感しました。こういった学びを通して、友人同士の普段の会話でも、「この生まれ育った水俣を、堂々と胸を張って語ることができる大人になろう」という声がごく自然に上がっています。

 しかしながら、積み残された多くの課題から目を背けることはできません。「水俣病問題はもういいじゃないか」という声。未だに間違った知識を持っている人。水俣病を全く知らない若い世代。こういった人たちに向けて、私たちは水俣病をどう伝えていけばよいのでしょうか。さらに視野を広げると、人間は便利さだけを求めて自然のあるべき姿を変え、地球環境を破壊しています。この人間の身勝手な振る舞いを止め、過去の過ちを繰り返さないために、私たちは何をしていくべきでしょうか。

 私は中学生の時、「漁民の森づくり運動」の植樹活動に参加しました。これは、「山」「川」「海」を一体としてとらえ、水産資源や森林を守っていこうという考えから始まったものです。緑深い山々の美しさに圧倒されながら、この美しい風景を守っていくのは私たち若者であり、次の世代に受け継いでいくことが、一人ひとりの使命なのだという思いを新たにした体験でした。水俣に生まれ育った私たちだからこそ、水俣病から学んだことを発展させ、地球規模の視点で環境問題について考えていきたいと思います。

 最後になりましたが、水俣病の犠牲になられた多くの方々のご冥福をお祈りいたします。また、私たちの愛すべき故郷「水俣」を、人にも環境にも優しい、心温まる町にしていくことを誓い、祈りの言葉とします。


平成十八年五月一日
熊本県立水俣工業高等学校 生徒代表 電気科3年 宮本 浩司


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水俣市立袋中学校 生徒代表「祈りの言葉」
 水俣病が公式に確認されて50年、半世紀の節目を迎えました。生命の源である見生茶の美しい海が、チッソ工場からたれ流された有機水銀により汚され、多くの尊い生命が犠牲となりました。健康が奪われ、人々の暮らしも壊され、悲しい出来事がたくさんおこりました。この美しい海も、犠牲になった全ての生命と共に苦しんできました。

 美しい海は、僕たちが育ってきた袋地域で自慢できるものの一つです。新緑のまぶしい木々に囲まれた冷水の森、そこから湧き出した清水が、茂道や湯堂の海にそそぎ、魚の湧く豊かな海となっています。その自慢の海で起きてしまった水俣病から、僕たちはたくさんのことを学びました。

 水俣病の語り部の方の話からは、病気の辛さ、差別と偏見の苦しみを実感させて頂き、その苦しみの中にあっても、相手の事を「うらまない」「いじめ返しをしない」「相手が変われないなら、自分が変わること」と貴重な教えをいただきました。胎児性患者の方や水俣病に関わる人たちとの交流の中から、車椅子で生活している患者さんが、同じ胎児性の仲間が、もっと世の中に出られることを一生懸命に考え、実現のために行動されていることを知りました。患者さんたちが自分の病気を差し置いて、相手を考えた思いやりのある心に触れることで、自分自身を見つめ直すきっかけをいただきました。

 今、水俣では水俣病の経験を生かすことに、市民全体で一致団結しています。その取り組みの一つが、徹底したゴミの分別収集です。環境を足もとから大切にする活動で、僕たちの学校でも環境ISOとして、みんなで協力して取り組んでいます。また、水俣病によって亀裂が入ってしまった人と人との関係を「もやい直し」するためにも力を尽くしています。さらに水俣の各地には、水俣病に心を寄せて、その解決のために頑張っている支援の人がたくさんおられます。

 しかし、半世紀たっても水俣病は終わることなく、解決できない問題がたくさんあります。病気の痛みや苦しみを背負い、被害の救済を訴える人たちが数千人います。そのためにも、水俣病を力強く発信していくことが必要だと思います。

 でも、水俣病について知らないことや、完全に理解できていないことがある僕達には、言葉だけで伝えることはできません。そこで「2001・水俣ハイヤ」の歌と踊りで伝える方法があります。これは、患者さんと水俣病に関わってこられた方々が「水俣病を広く発信していくために」創作されたものです。

 僕達は、この「2001・水俣ハイヤ」を小学校4年生の頃から学校や市の行事がある時に歌い踊っています。言葉にするのは難しくても、歌や踊りに気持ちを込めて、たくさんの人たちに水俣病を伝えていく事はできるはずです。一つの踊りから始まった人々のこの輪を、踊りを見せてくれた人に伝え広げ、さらに、多くの人とつなげ、広げていきたいと思います。そして、もっと勉強して本当に水俣病を理解できたとき、それを言葉としても伝えていこうと思います。

 水俣病から学んだ教訓を、犠牲となられたたくさんの生命の意志として受け継ぎ、二度と同じあやまちが起こらないよう、未来につなげていきます。水俣病に関わった全ての人に、安心してもらえるように、犠牲になられたたくさんの生命が無駄にならないように、これからは僕達が精一杯頑張っていきます。

 どうそ、天国から見守って下さい。
 全ての御霊よ、安らかにお眠り下さい。


平成十八年五月一日
水俣市立袋中学校 生徒代表 安川 憂


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水俣市立袋小学校 児童代表「祈りの言葉」
 私たちは、この水俣が大好きです。緑あふれる水俣の自然が大好きです。豊かな実りを与えてくれる水俣の大地が大好きです。私たちを包み込んでくれるような、大きく澄み切った水俣の空が大好きです。たくさんの恵みを与えてくれる、青く美しい水俣の海が大好きです。私たちを温かく見守り、優しく広い心で接してくださる、地域の方々が大好きです。
 しかし、その大好きな水俣の、海が汚され、水俣の人々の心も離ればなれになってしまった、悲しい出来事があったことを私たちは学習しました。「水俣病」です。
 「水俣病」は何の罪もない人々から、体の自由を奪い、尊い命を奪いました。さらに、患者さんやご家族の方、水俣の人々への差別を生み、人と人とのつながりも奪いました。

私たちは、一年生から水俣病の患者さんたちと交流を持ち、地域におられる環境マイスターのみなさんや施設の方からお話を聞き、水俣病学習・環境学習を積み重ねてきました。その中で必ずおっしゃるのが「水俣病を経験した水俣だからこそ」という言葉でした。「水俣病」を教訓として、水俣の環境を守るために、水俣に生きるすべての生命を守るために、一生懸命に取り組んでおられる強い思いにふれ、私たちは多くのことを学び、考えさせられました。

今、私たちの学校では、ISO委員会が中心となって、学校版環境ISOに取り組んでいます。教室にはゴミ箱を2つ置き、給食の牛乳瓶についているビニールやパンの袋を廃プラスチックとして集めています。紙ゴミは分別して、燃えるゴミを減らす取り組みも始めました。また、歯みがきはコップ一杯の水ですませたり、こまめに電気を消すようにしたりして、節水・節電にも心がけています。これらは入学したばかりの一年生も行っています。そして、学校ばかりでなく水俣市民全体でも取り組みを行っています。ごみの二十二分別収集や買い物の際のマイバック運動、エコショップなどは、私たちにもよく分かる活動です。他にも、環境を守るための様々な取り組みを行っています。

 大好きな水俣の人々が身をもって経験された「水俣病」をめぐる悲しみと同じ悲しみが、現在、世界のあちらこちらで起きています。水俣に生まれ、暮らしている私たちだからこそ、できることが何かあると思います。今後、二度と同じ悲しみを引き起こさないために、また、私たちに様々な思いを伝えてくださった方々に応えるために、「水俣病」のことについてさらに深く学習し、真実を正しく理解し、日本中、いえ、世界中の人々に伝えていけるようになりたいです。また、将来、水俣を離れたとき、「自分は水俣出身です」と胸を張って答え、このすばらしい自然の恵みを取り戻したふるさと水俣が、「水俣病」による様々な苦しみを力強く乗り越えてこられた患者さんやご家族、市民が暮らす街であること、「環境都市水俣」として生まれ変わろうと市民全員でがんばっていることを、誇りを持って伝えていきたいと思います。

 私たちは「二度と同じ過ちを繰り返さないよう、患者さんやその家族とともに、そして、水俣市民全員で力を合わせて、私たちの住むこの水俣を、人々の心が温かく結び合い、人と自然がともに生きる、すばらしい街にしていくこと」をここに誓います。


平成十八年五月一日
水俣市立袋小学校 児童代表 牧尾 亘  
田中 陽菜


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