施設案内

開館時間
午前9時~午後5時まで
入館無料、駐車場無料

休館日
月曜日
(月曜が祝日の場合はその翌日)
年末年始(12/29~1/3)
駐車場
乗用車270台
大型バス15台
(案内はこちら)

※障がい者・高齢者用の駐車場については、事前にご相談ください。

所在地
〒867-0055
熊本県水俣市明神町53番地

TEL
0966-62-2621
FAX
0966-62-2271


※資料館HPに掲載されている写真等について、無断で刊行物、WEB上に掲載することを固くご遠慮申し上げます。


水俣病犠牲者慰霊式

平成13年度水俣病犠牲者慰霊式 式辞・祈りの言葉


水俣市長式辞
 水俣病犠牲者慰霊式を挙行するにあたり、水俣病の発生によって犠牲となり、尊い生命を失われた方々の御霊に対し、謹んで哀悼のまことを捧げます。
 水俣病公式発見より四十五年の歳月が流れました。
 今回は、二十一世紀当初の慰霊式であり、十回目を迎えました。
 この節目の慰霊式に、ご遺族や患者の皆様、川口環境大臣、潮谷熊本県知事をはじめ、国会議員、県会議員、近隣市町の関係者、それに多くの市民のご臨席を賜り、お祈りを捧げていただきますことに、厚く御礼を申し上げます。
顧みるに、あの忌まわしい水俣病の発生により、何の罪もない多くの人々が、突然、病魔に襲われ、加えて、これまで信頼し助け合ってきた周囲の人々からも、言われなき中傷、偏見、差別など非情な仕打ちを受け、心身ともに悶え苦しんで生命を落されました。
 さぞかしご無念であったろうと思います。
 また、残されたご遺族、ご家族のおおくも健康を冒され、生業を失い、生活も周囲の冷たい目を気にしながら、悲嘆と苦悩と絶望の日々を送ってこられました。
 本年も、この慰霊式に望み、御霊を前にするとき、改めて激しい胸の痛みを覚えます。
 二十一世紀は、「環境の世紀」と言われています。人命と環境の大切さを水俣病事件を通して学んだ水俣市民は、いち早く「環境モデル都市」づくりを進めてまいりました。
 すでに、ごみの分別収集や減量化、家庭や学校まで広まった環境ISOなど、水俣独自の環境保全の取り組みは、全国から注目され高い評価をいただくようになりました。公害の町から環境の町に変わり始めております。
 水俣市は昨年から、JICAの研修を受け入れ、中国をはじめ東南アジア諸国の研修生に、環境問題の実践や公害の教訓など、啓発、発信に努めております。
 やがて、水俣病情報センターも完成します。さらに水俣からの発信が充実するものと存じます。
 ところで本年十月には、「地球環境汚染物質としての水銀に関する国際会議」が開催されます。公害の原点である水俣市で、水銀の及ぼした健康被害や地域社会が受けた影響など論議されることは、誠に有意義なことであり大きな成果が得られると期待をいたします。
 水俣市は、本年二月、国のエコタウンの地域指定をうけました。家電リサイクル産業をはじめ、静脈産業の立地集積を進め、中小都市のモデルになりうる循環型社会を創造してまいります。
 このように、平穏な地域社会が蘇り、新しいまちづくりの希望と意欲と市民の連帯が生まれたことは、うれしい限りであります。
 しかし、水俣病公害は、時間的にも、空間的にも膨大な事件であります。
複雑で多岐にわたる問題は、司法の判断や立場の違いで評価も分かれ、様々な論議が続いていることも十分承知いたしております。
 また、未だ心の深い傷を癒す事ができない患者さんが存在されるなど、未解決の深刻な課題も数多く残されております。これらの真実を確りと見定め、世紀や世代を超えて、真の解決への努力を続けなければならないと覚悟しております。
 私たちは、尊い数多くの生命を失ったことで「人類も自然の一部であり、大自然によって生かされている」ということを思い知らされました。
 このかけがえのない貴重な教訓を堅持しながら、郷土の精神的、経済的、社会的地位の向上と人権の復権を実現し、「二十一世紀は水俣の世紀」と言える水俣を創造することが、尊い犠牲を後世に生かす唯ひとつの道であると確信し、努力を積んでまいります。
 最後に、水俣病犠牲者のご冥福をお祈りし、併せてご遺族のご健勝とご清福を祈念申し上げ、式辞といたします。

 平成十三年五月一日
                                  水俣市長 吉井正澄


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水俣病患者・遺族代表 「祈りの言葉」
 
 茂道で網元をしていた父、おっちゃんが亡くなってもう三十二年になります。
昭和四十四年のことでした。思えば、おっちゃんはそして母も私も人様を疑わず、昔から山、川、海に恵まれ、一人っ子で一人娘の私を親方に育てるため、小さい頃から愛情を注いでくれ暮らしてきました。でもそんな暮らしは突然、変ってしまいました。
 昭和三十一年頃、最初に母の具合が悪くなり、昭和三十四年の夏のある日、おっちゃんと二人で漁から帰ると、母は顔を水ぶくれにして座っていました。
たばこに火をつける手が思うように動かず、マッチの火を顔や手にくっつけヤケドだらけで「かあちゃん、どげんしたっかな」と聞いてもぶるぶる震え、目も動かず私たちを向いているだけでした。すぐに父が市立病院に連れていったら、夕方七時のラジオニュースで「杉本トシはマンガン病だ」と放送されたことを近所の人が教えてくれました。
 数日後、病院に行ったら、行けども行けども母の病室はなく、一番奥の戸口の狭い分厚い壁の病室に入れられていました。そこは隔離病棟でした。
やっぱり村の人が言う、うつる病気かなと思いながらも戸を開けると、地獄を見たとでも言うのでしょうか、病室の中はキーキーうめく人がいて、けいれんのひどい人たちはベッドにくくられていました。母は言葉が出なくなり、泣くだけで、うれしいのか悲しいのかわからない様子で、ここで死ななければならないのかと思いましたが、まだ軽いほうでした。多くの人はキーキー叫びながら、見舞いにくる人もないまま、たった一人で狂い死んでいきました。村の人たちは、病院に行けばそれが報道され、いじめられるから行かなかったのです。
 私たちが家に帰ると、村の人たちから「うつるから近寄るな!戸も開けるな!」と言われ、少しのすき間からでも石が飛んでくるし、お金を払っても品物を売ってくれず、玄関口には下肥をかけら、網を切られたりの嫌がらせが続き、こんなに人は変るものかと思うくらい、いろいろないじめをうけました。
 でも、おっちゃんは「親子三人、病気がうつったち、良かがね、家族で介抱しよい」と言い、鎌で裏道の草を払いながら看病に行きました。後で父も入院し、私も具合が悪くなり、働くこともできず、生活も行き詰まり、人にも裏切られ、本当に苦しい日々が十年近く続きました。
 おっちゃんは気丈な人で、いじめられる中でも「決して人様にはいじめ仕返しはすんなぞ、病気もきつか、あることなかこといろいろ言われたり、されたりはまだきつか、ばってん、こらゆっしこ、こらえていこわい」と言ってました。「魚をとる人は、まず、木や水を大事にして、人を好きにならんば。人として生まれたからには、やってはならんことはしてはならん」と教えてくれたので、うつってもいい、死んでもいいと思い、母を介抱しました。
 寝たきりの私でしたが、ドテラ一つで父ちゃんが来てくれて五人の子供を授かりました。おっちゃんは喜んでくれました。でも、「自分はいじめられてもかまわんばってん、孫がいじめられることを考えると、つらくて死んでも死にきれん、裁判して自分のせいなのか、病気のせいなのかそうではないのか、本当のことを知ってから死にたい」と言って母と裁判を始めましたが、一ヵ月後に亡くなりました。父の遺言通り裁判を続けたら、村の人や、兄弟や親戚を使って「裁判をするな、降りろ」と、もっとひどいいじめが始まりました。「村を出て行け!親戚の恥だ!」と私たちを遠くに追いやろうとしました。でも、おっちゃんの教えを守って私たちはこらえました。
 「もしかして、かあちゃんのような病気にかかったときは、のさりと思え」が亡くなる最後のおっちゃんの言葉でした。私はどうして水俣病がのさりなのか、そのときは本当のところ理解できませんでした。長い年月がたって、やっと納得できました。人を恨むなと教えてくれたんです。
 「水俣病でいろんなことがあっても時化ち思え、台風と思え」「ばってん、こん時化は長かねぇ」と言っていました。箸を持てず、歩けない足で、人に声が届かず、死ぬよりなか、死にたいとのたうちまわり、おびえ、わめき続けていた私でしたが、家族から捨てられず「かあちゃん、もう泣くな、母ちゃんが泣けばどげんしようんなか」といってくれる子供たちに恵まれました。父ちゃんは私の主治医になって黙って守ってくれました。
 月日が経つにつれ、嫌がらせをしていた人たちも水俣病にかかっていきました。まさか自分が水俣病にかかるとは思わず私たちをいじめたんでしょう。
でも、最後に「栄ちゃんごめんな、おばんごめんな」と言って亡くなったと、残された遺族から聞かせてもらいました。みんな本当はいい人だったんです。みんな生きていてもらいたかった。今の水俣をみてもらいたかった。話しをしてみたかった。
 この小さな水俣で、被害者も加害者も健康な人もいっしょに生活しなければなりません。水俣に住む者が最後には責任を持たなければなりません。私たちが水俣の土にかえろうとするとき、後始末は自分でしなければならないからです。水俣がふるさとだからです。
 水俣病になったおかげで、いろいろなことを経験し世の中のことがよく見えるようになりました。「人様は変えられないから、自分が変れ、人を好きになれぞ」というおっちゃんの教えを守って、いっぱい人にも出会いました。魚にも出会うようになりました。でもまだ多くの人たちが水俣病で起きたことを知りません。仲間で埋立地に祈りを気持ちにした魂石を彫り、おいています。人のおこした愚かさを忘れて欲しくないからです。
 何をしても治らない身体だと教わり、死ぬまでこの病気とつき合う覚悟が決まったとき、食べ物でなった病気なら、食べ物で治そう、それならここでやっていこうと決めました。
言葉のない海や魚と話し、海を治療場にしたくて、新しく舟をつくり、家族だけの漁をはじめました。母も一緒です。孫の稔は大きくなって漁労長になってくれ、長男の肇も帰ってきて手伝ってくれ十年になりました。海も水俣も蘇りつつあります。やっとやっといい世の中がやってきました。大好きな水俣になりました。
いつ死んでも不思議でなかった私たちです。本当の水俣病のこと、もう二度と人としてやってはならんことはしてはならんことを伝えるために、生かされている私たちです。
おっちゃん、犠牲になったみなさま、みんなの分まで精一杯生きます。どうぞどうぞ安らかにお眠りください。あの世から見守っていてください。

平成十三年年五月一日 
                水俣病患者遺族代表  杉本栄子


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環境大臣 「祈りの言葉」
 
 この慰霊式に臨み、水俣病という未曾有の公害により、かけがえのない生命を失われた方々に対し、心から哀悼の意を表します。
 また、平成七年に水俣病問題の政治的解決策が取りまとめられた際に、公式発見以来四十年の長きにわたる重い歴史を背負いながらも苦渋の決断をされた関係者の各団体の方々や、関係者の方々に心から敬意を表します。
 私も、これらの方々の苦しみを決して忘れることなく、水俣病のような悲惨な公害が二度と繰り返されないよう、環境行政の推進に全力で取り組むことを改めて固く誓う次第であります。
 さて、先の政治解決により、水俣病の救済をめぐる問題についてはひとつの節目を迎え、現在、患者の方々と住民の方々がともに手を取り合い、心豊に暮らすことができる地域社会を築く「もやい直し」の活動が、三ヵ所の「もやい直しセンター」を中心に活発に繰り広げられていると伺っております。
 また、当地におかれては、二十三種類にも細分化されたごみの分別収集や環境管理システムの国際規格である「ISO14001」の認証の取得など、環境に配慮した町づくりを積極的に進められていることと承知しております。地域の住民の方々や自治体が、水俣病の教訓を胸に、意欲にあふれた地域づくりを進めておられることに感謝の気持ちと感動の念をおぼえます。
 本年一月より環境庁は環境省に変わり、環境保全に関する政策の中心的役割を果たすことになりましたが、水俣病の悲劇を教訓として、忘れることなく、その経験を国内外に活かしていくための取組に力を注いでまいります。
 現在でも、世界中にはこの地で起きたのと同じような公害の危険にさらされている地域があります。環境省におきましても水俣病の悲劇に謙虚に学び、これらの地域で同じことが二度と繰り返されることのないよう、皆さんの協力を得て、インドネシア、フィリピン、タイ、中国、ベトナムにおいて国際セミナーと開催し、我が国の経験を伝えてまいりました。
 また、国立水俣病総合研究センターにおいては、水俣病に関する資料や情報を収集、解析するとともに国内外へ情報を提供、発信する機能をもった水俣病情報センターをこの六月からスタートさせることとしております。
 さらに本年一〇月には、地元の協力の基に、ここ水俣で「地球環境汚染物質としての水銀に関する国際会議」が開催される運びとなりました。環境省としても、この国際会議を積極的に支援してまいりたいと考えております。
 今後とも、水俣病総合対策医療事業など地域の方々への支援対策を着実に進めるとともに、国立水俣病総合研究センターを拠点として、地元の皆様とともに、水俣病の貴重な教訓と我が国の持てる技術を活かすための取組に、一層邁進することを誓う次第であります。
 最後に、改めて、水俣病の犠牲となり亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

平成十三年五月一日
                     環境大臣  川 口 順 子


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熊本県知事 「祈りの言葉」
  御遺族、患者の皆様、多くの市民の皆様、並びに環境大臣をはじめ関係の皆様方の御出席をいただき、水俣病犠牲者慰霊式が厳粛に執り行われるに当たり、祈りの言葉を申し上げます。
 まず、水俣病により亡くなられた方々に対し、謹んで哀悼の意を表します。
 また、今なお水俣病に苦しんでおられる方々に、心からお慰めの言葉を申し上げます。
 水俣病の発生により、多くの方々の命や健康が損なわれたばかりでなく、地域社会の在り様にも様々な影響を及ぼしました。
 その苦しみ、悲しみの中で筆舌に尽くし難い皆様の御苦労を思いますとき、深い痛惜の念を禁じえません。
また、このような悲劇の発生・拡大を防ぎえなかったことが残念でなりません。
 二十世紀に受けました水俣病の悲惨な経験は、人間にとって掛け替えのない環境をいかに守り、いかに子々孫々に伝えていくかを永遠の課題として私たちに課しております。
 今を生きる私たちは、真摯にこの課題に応えていくことが、責務であると重く受け止めております。
 県におきましては、水俣病の貴重な教訓を謙虚に受け止め、「環境立県くまもと」の実現を県政の重要課題の一つとして位置づけ、事業者や県民の皆様との連携を深めながら、循環と共生を基調とする社会の構築を図ってまいります。
 本年は、世界的にも貴重な公害資料である水俣病関連資料を収集・保管・展示される国の「水俣病情報センター」がオープンされることになっております。
県におきましても、現在保管しております水俣病関連資料の整理を行っており、情報センターとも連携を図ってまいります。
 また、十月には、水銀問題に関する世界最大規模の国際学術会議である「
第六回地球環境汚染物質としての水銀に関する国際学術会議」がここ水俣市で開催されます。
 二度と公害の悲劇を繰り返さないためにも、これらを通じて、本県が体験した水俣病の教訓を広く国内外に向けて発信し、環境破壊の未然防止に寄与していく必要があると考えています。
 また、水俣及び周辺地域には、水俣病の発生によって損なわれた地域社会の再生・振興や、被害を受けられた方々の医療福祉の向上などが課題として残されており、県としても更なる努力を続けてまいります。
 そして、この姿勢を持ちつづけることが、水俣病で亡くなられた御霊に報いるものであり、私たちが果たすべき責務であると考えております。
 ここに、重ねて、水俣病で亡くなられた方々の御冥福を心からお祈り申し上げます。

 平成十三年五月一日
                     熊本県知事  潮 谷 義 子  


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チッソ株式会社 「祈りの言葉」
 本日ここに、水俣病犠牲者慰霊式が執り行われるに当たり、謹んで御霊の安らかなることをお祈り申し上げます。
 当社は、創業以来、永年にわたり地域の皆様に支えられ、地域とともに歩んでまいりました。しかるに、この間、当社の工場排水に起因して、水俣病を発生させ、このため多くの方々が犠牲となられましたことは、まことに痛恨の極みであります。
 ここに心よりお詫び申し上げますとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 当社は、この経験を深く心に刻み、環境に配慮し、環境への負荷を軽減する努力を重ね、二度と公害を起こさないことを固くお誓い申し上げます。
 近年、国際競争の激化により、当社の事業環境は厳しさを増しているところでありますが、全員一致協力して再生計画の達成に全力を尽くし、補償責任の完遂と地域経済への貢献という課せられた責務を確実に果たして参りたいと存じます。
 そのことが、犠牲となられました方々の鎮魂のため、また、国、県及び地元の皆様から戴いておりますご支援にお応えする最善の道であると信じます。
 これらのことを肝に銘じて、なお一層の努力を重ねて参りますことをここにお誓いし、祈りの言葉と致します。
    
 平成十三年五月一日
          チッソ株式会社 常務取締役員水俣本部長  石 田 紀 生


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市議会代表「祈りの言葉」
  世界に類例のない環境破壊によって発生した水俣病は、公式発見以来四十五年目を迎えました。犠牲となられた方々への御霊に対し、謹んで哀悼の意を表します。
 犠牲となられた方々の無念の想い、御家族のお気持ちを拝察いたしますとき、痛恨の思いがいたします。
 四十五年という長い年月が経過し、新しい世紀を迎えた今、水俣市では、水俣病の経験を貴重な教訓とする地域づくりが進められ、全国から多くの視察者・修学旅行生等を受け入れております。市議会においても、平成四年に「環境・健康・福祉を大切にするまちづくり宣言」を行い、これまでの水俣市の取り組みを支援して参りました。
 しかしながら、いわれのない偏見や中傷、差別を受け、言うに言われぬ苦悩を重ねてこられた患者の傷ついた心を癒し、人間の誇り、尊厳を回復していくことは、今もなお、私たちに課せられた大きな課題であります。
 今後も、水俣病の問題に正面から取り組み、共存・共生しながら、水俣を再生していくために、国・県の御支援を得て進めて参りたいと思います。
 私たちは、あなた方の尊い犠牲が決して無駄にならないよう、また、水俣病のような悲劇が二度と繰り返されないよう、国の内外に訴え続けて参ります。
どうか安らかにお眠りください。
 ここに犠牲となられた方々の御冥福をお祈りし、併せて御遺族の皆様方の御清福を衷心より祈念いたしまして、祈りの言葉といたします。

平成十三年五月一日
                  水俣市議会議長 高山茂行



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高校生代表「祈りの言葉」
 私は、美しい川や海、そして緑あふれる山々に囲まれた水俣で生活している事を誇りに思っています。しかし、戦後の高度経済成長の中、その代償そして水俣病が発生したことは決して忘れてはならないことです。美しい自然は破壊され、多くの方々の命、体の自由が奪われ、水俣に住む人々の心には大きな傷を残しました。
 あれから水俣は大きく変ってきています。水俣湾は埋立地と姿を変え、くまもと未来国体ではこの地においてソフトボール競技が、水俣湾ではカヌー競技が開催されました。今年行われるひのくに新世紀総体ではくまもと未来国体に引き続きソフトボール競技の開催が予定されています。
 また、埋立地周辺には竹林公園や水俣病資料館などの施設も作られています。今から水俣病のことを勉強したい人や、よく知らない人も水俣病資料館などに行くことによってくわしくしることが出来るのではないでしょうか。
 さらに、水俣市は環境問題に対する意識が高く、市民一丸となってゴミの分別や自然を取り戻す努力をしています。二十一世紀になった今、水俣を引っ張っていくのは私たち若者だと思います。私たちは、水俣の美しい自然をいつまでも守り、次の世代へ伝える義務があります。そして今後の地球の未来を左右する様々な問題にも立ち向かっていかなければなりません。
 残念ながら奪われた命を取り戻すことは出来ません。しかし大切なのは、水俣病を過去の問題にせず、今、そしてこれからの問題として向き合っていくことだと思います。もう二度とこのようなことが起きないように、そして起こさないようにしなければなりません。自らの未来のために、私たちが出来ることはまだまだたくさんあるはずだから…
 最後に、水俣病の犠牲になられた方々のご冥福をお祈りし、祈りの言葉とさせていただきます。

 平成十三年五月一日
             熊本県立水俣工業高校 機械科二年 寺床敦司


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